
2回も暗殺されかけ、
天皇に「頼む」とまで言われ、ついに内閣総理大臣を承諾した、
鈴木貫太郎の生涯と名言を紹介します。
1868年、和泉国大鳥郡伏尾新田(現在の大阪府堺市中区伏尾)に生まれ、
1895年、日清戦争では、湾内の防材の破壊や偵察などに従事、
1904年、日露戦争に参加、
1905年、第四駆逐隊司令に転じ、
鈴木貫太郎がロシア艦隊を倒すためには、
魚雷による「高速近距離射」が必要だと考え、
それを実現するため、
鈴木貫太郎は言葉にできないような、すごいハードな訓練を繰り広げ、
当時の部下から呼ばれた名前から、
その訓練の凄まじさが、言葉だけで伝わってきます。
正解は後ほど。
その後、
順調に出世コースを歩みますが、
1929年、昭和天皇と皇太后・節子(貞明皇后)の希望で、
天皇などの身の回りの世話などをする、侍従のトップに就任します。
侍従長という役職は、
それまで在職していた海軍の最高位である軍令部長に比べると、
なんと●●番ぐらいランクが下がる役職だったようです。
天皇に仕える名誉ある職とはいえ、
●●番ほどランクが下がる役職を受けた、
鈴木貫太郎は、正直カッコイイと思いました。
正解は後ほど。
そして1936年2月26日、
あの「二・二六事件」が起こるのです。
安藤輝三陸軍大尉率いる一隊が、突然、鈴木夫婦のいる官邸を襲撃、
鈴木貫太郎は、
左脚の付け根、左胸、左頭部となんと3発も撃たれ倒れこみ、
もちろん、部屋は血の海となりました。
そこに、安藤輝三陸軍大尉が現れ、
下士官の一人が「中隊長殿、とどめを」と発すると、
安藤が軍刀を抜きます。
軍刀を抜いたその後から、
鈴木貫太郎が病院に運ばれ、起きた出来事などは、
夫婦二人の愛の深さを伺い知ることができる、
エピソードがいっぱいです。
正解はのちほど。
そして、
1941年、日本は大東亜戦争に参戦、
1945年、戦況が悪化し、その責任をとり、
当時内閣総理大臣であった小磯國昭は辞職し、
当初は辞退するも、
天皇に「頼む」とまで言われ、ついに承諾し、
鈴木貫太郎は内閣総理大臣となります。
ここで、驚くべき2つの事実があるのです。
正解はのちほど。
そして、
1945年8月6日、広島市へ原子爆弾投下、
8月9日、長崎市へ原子爆弾が投下されます。
そして、
天皇が同席した最高戦争指導会議(御前会議)が行われ、
8月14日正午、
ポツダム宣言を受け入れて降伏することを決めます。
ここでも、鈴木貫太郎は、
翌日8月15日の早朝、欧化主義と対立し、
自国民や自国の文化・伝統の独自性を強調・維持しようとする考え方を持つ
国粋主義者たちに、総理官邸及び小石川の私邸を襲撃され、
命を狙われるも、
間一髪で警護官に救い出されました。
そして、その日の正午、
昭和天皇の朗読による玉音放送がラジオで放送されるのです。
同日、鈴木貫太郎は天皇に辞表を提出し内閣は総辞職しました。
その後、
1948年、肝臓癌(かんぞうがん)により、
81歳でその生涯を閉じることとなりました。
そんな、
鈴木貫太郎の生涯を
分かりやすく解説させていただきました。
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