イスラエルから評価!唐沢寿明出演で映画化【杉原千畝の生涯と名言】

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「命のビザ」を発行した杉原千畝の銅像



「東洋のシンドラー」

杉原 千畝(すぎはら ちうね)



彼の波乱万丈な生涯と名言を紹介します。








イスラエルから評価!唐沢寿明出演で映画も!杉原千畝とはどんな人物

「命のビザ」を発行した杉原千畝が生まれた、現在の岐阜県美濃市のイメージ写真



1900年

杉原 千畝(すぎはら ちうね)は、

岐阜県武儀郡上有知町(こうずちちょう)

現在の岐阜県美濃市に生まれます。

父親は、税務署に勤めていました。




1912年

小学校をなんとオール5という

すごく優秀な成績で卒業。




その後、

旧制愛知県立第五中学(現在の愛知県立瑞陵高等学校)に入学。




ちなみに、

この学校の1つ上の先輩が、

小説家・推理作家で有名な江戸川乱歩です。




同校卒業後、

父親は医師になることを望んでいたようですが、

医師でなく英語教師になりたかった、

杉原 千畝(すぎはら ちうね)は、

なんと入試で白紙答案を提出。










父の意に反して、

1918年

現在の早稲田大学教育学部英語英文学科に入学。

父親の希望した進路でなかったため、

仕送りがもらえない厳しい生活からの

スタートとなります。




牛乳配達など複数のアルバイトを

掛け持ちしていたようですが・・・




同年、

米の価格が急騰した「米騒動」が起こり、

なんとアルバイト先が次々と倒産。

学費と生活費を稼ぐことが

できなくなってしまいます。




杉原 千畝(すぎはら ちうね)

人生初めてのピンチ到来。




ここで、

杉原 千畝(すぎはら ちうね)の人生に

ターニングポイントが訪れます。






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たまたまですが、

図書館にいった際、

「外交官留学生試験」の存在を知り、

これだ!と

よくマンガに出る、

イナズマがカラダを通った

状況だったと思われます。




ここから

ドラマのような人生がスタートします。




杉原 千畝(すぎはら ちうね)は、

大学の図書館に連日こもり、

米国発行の何冊もの雑誌を

片端からすごいスピードで

読む込むといった猛勉強の末、

試験を突破し、

見事合格を勝ちとります。












1919年

早稲田大学を中退し、

外務省の官費留学生として

中華民国のハルビンに派遣され、

ロシア語を学びます。




気づかれましたでしょうか?




杉原 千畝(すぎはら ちうね)は、

英語が好きだったんじゃないの?




そうなんです。




ロシア語を選んだ理由は、

今後のロシア語の重要性を、

試験監督官からアドバイスされ、

決めたようです。




杉原 千畝(すぎはら ちうね)

またまた、

神がかり的な猛勉強をスタートします。












単語を速攻で暗記するために、

露和辞典を半分に切って、

左右のポケットに一つずつ入れ、

肌身離さずつねに持ち歩きます。




そして、

単語を1ページずつ暗記し、

暗記できたら

そのページを破り捨てるという方法で、

猛勉強を繰り返していたようです。




この猛勉強の成果を

裏付けるエピソードが伝えられています。




外交官試験で、

ロシア語試験は100点満点中90点という

高得点を獲得しただけでなく、

過去の留学生と比べたら

ものすごく優秀だということで、




なんと!




生徒という立場から、

ロシア語を教える教師となります。




杉原 千畝(すぎはら ちうね)が

教師として担当していたのが、

文法・会話・読解に加えて、

ソ連の政治・経済および時事情勢など。












そんな実績なども評価され、

1924年

外務省書記生として採用されます。




その後、

26歳の若さにして、

ロシア問題のエキスパートとして

頭角をあらわしたエピソードが!




1932年

満洲国の建国が宣言され、




1933年

ソ連と鉄道に関する譲渡交渉を、

杉原 千畝(すぎはら ちうね)が

担当することになりました。




ソ連は当初、

なんと、

当時の日本の国家予算の約1割強にあたる、

6億2,500万円を要求してきましたが、

なんと、

1億4,000万円にまで

値下げさせたという伝説が残っています。






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本当にすごい人物ですね。

ピンチをチャンスに変え、

どんどん人生を切り開いていく、

杉原 千畝(すぎはら ちうね)


ここから、

東洋のシンドラーと呼ばれるようになった

エピソードを

紹介していきます。

 









杉原千畝!イスラエルから評価!東洋のシンドラーと呼ばれたその後は

杉原千畝が電車が動き出しても可能な限り「命のビザ」を発行し続けたカウナス駅の写真



1939年

杉原 千畝(すぎはら ちうね)は、

リトアニアのカウナスという場所にある

日本領事館の領事代理となり、

リトアニアで生活を開始します。




その着任直後、

ドイツがポーランド西部に侵攻し、

第二次世界大戦が始まりました。












すぐさま、

ソ連がポーランド東部への侵攻を開始し、

杉原 千畝(すぎはら ちうね)がいた、

リトアニアは、ソ連軍が占領します。




この頃から、

ドイツのユダヤ人迫害政策によって、

欧米から見て、日本や中国、タイなどの

極東方向に向かう避難民が

徐々に増えていきました。




1940年

ドイツ占領下のポーランドから

リトアニアに逃亡してきた

多くのユダヤ系難民などが、

各国の領事館・大使館から

ビザを取得しようとしていました。




しかし、前述のように、

リトアニアはソ連軍によって占領され、

そのソ連が

各国に領事館・大使館の閉鎖を求めていました。




そんな状況の中、

日本領事館だけが開いていて、

ユダヤ難民たちが殺到します。












ここで、

杉原 千畝(すぎはら ちうね)が

目にしたものを記録に残しています。




当時を回想する手記の中で、

「ヨレヨレの服装をした老若男女で、いろいろの人相の人々が、

 ザッと100人も公邸の鉄柵に寄り掛かって、

 こちらに向かって何かを訴えている光景が眼に映った」と。




そんな光景も見て、状況を察した、

杉原 千畝(すぎはら ちうね)は、

夫人と相談しつつ、

悩みに悩み、

また悩み、

最後は『外務省をクビになっていい』という

覚悟を決めます。




覚悟を決めた、

杉原 千畝(すぎはら ちうね)の

神がかり的な言動に、

感動を覚えます。












当時、

「これ以上ビザを発給しないように!」と

外務省が命令を出しても、

「あーでもない」、「こーでもない」と

論点をずらしたり、




また、

わざと返事するタイミングを遅らせている間に、

外務省の決めているルールに反し、

受給要件を満たしていない人に対しても

独断で日本を経由して外国に渡航できる、

通過査証のビザをガンガン発給しました。




一度に多量のビザを手書きしたため、

万年筆が折れるだけでなく、

書きすぎて、

腕を夫人がマッサージしなくてはならない

状態までになってしまいます。






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その後も、

ソ連政府や国から再三の退去命令を受けながら、

約1ヶ月間、

寝る間も惜しんでビザを書き続けましたが、

とうとう外務省からの異動命令が

無視できなくなってしまいます。




そして最後、

ベルリンへ旅立つ電車の車窓からでも、

手渡されたビザを書き続けます。




そして、ついに

汽車が走り出し、

もうビザを書くことができなくなると、

「許して下さい、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」と




杉原 千畝(すぎはら ちうね)がお辞儀をすると、




「スギハラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」

という叫び声があがるだけでなく、




列車と並んで泣きながら走ってた人々は、

杉原 千畝(すぎはら ちうね)たちの姿が見えなくなるまで

何度も何度も叫び続けていたと

言われています。












ちなみに、杉原 千畝(すぎはら ちうね)が

ピザを発給した枚数は、

約1ヶ月間で、

合計で2,139枚にのぼります。

1ヶ月30日計算でいくと、

なんと1日約71枚にもなります。




この彼の勇気ある行動が数多くのユダヤ人を救い、

「東洋のシンドラー」と呼ばれることに

なったのです。












その後、日本へ帰国、

当然外務省から

『クビの通告書』が届き、退官。




それからは、

科学技術庁、NHK国際局など、

いろいろな職を転々とします。




その後、

運命的な再会を果たします。




イスラエルに留学中の

杉原 千畝(すぎはら ちうね)の子どもに、

杉原 千畝(すぎはら ちうね)本人が会いにいった際、

当時、

ピザを受給した1人が、

なんとイスラエルの参事官となり、

28年ぶりに大使館で再会したのです。




さらに、1969年

当時、ピザを受給したもう1人が、

イスラエルの宗教大臣となり、

29年ぶりの再会を果たすのです。




このとき、

イスラエルの宗教大臣は初めて、

杉原 千畝(すぎはら ちうね)が

クビ覚悟の単独判断で、

ビザを発給し続けたことを知り、

非常に驚いたとのことです。




そして1986年、

東洋のシンドラーと呼ばれた

杉原 千畝(すぎはら ちうね)、

86歳でその生涯を閉じました。












死後になってしまいますが、

いろいろな方の後押しもあり、

2000年、当時の河野洋平外務大臣により、

杉原 千畝(すぎはら ちうね)の名誉が

ようやく回復されました。




本当は本人が生きているうちに、

名誉を回復させてあげれたら良かったと思うと、

残念です。











現代では、

1983年、

杉原千畝本人や杉原幸子夫人なども出演した、

フジテレビドキュメンタリー番組

「運命をわけた1枚のビザ―4500人のユダヤ人を救った日本人」




1992年、

フジテレビ テレビドラマ 加藤剛出演、

「命のビザ」



2001年、

NHK ドキュメンタリー番組

「その時歴史が動いた

 【6000人の命を救った外交官 杉原千畝 ビザ大量発行決断の時】」




2005年、

読売テレビ テレビドラマ 反町隆史出演、

「日本のシンドラー杉原千畝物語 六千人の命のビザ」



2015年、

映画 唐沢寿明出演

「杉原千畝 スギハラチウネ」



2016年、
ドキュメンタリー映画 監督:梶岡潤一

「杉原千畝を繋いだ命の物語 ユダヤ人と日本人 過去と未来」




など、

数々の作品にも取り上げられています。












また、

杉原千畝をもっと詳しく知りたい方は、

本だけでなく、DVDもありますので、

ぜひ、ご覧ください。



終戦60年ドラマスペシャル:日本のシンドラー杉原千畝物語・六千人の命のビザ【DVD】




小学館版 学習まんが人物館 杉原千畝



杉原千畝 情報に賭けた外交官 (新潮文庫)



六千人の命を救え! 外交官・杉原千畝(すぎはらちうね)



第二次大戦下リトアニアの難民と杉原千畝 「命のヴィザ」の真相






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最近では、

2021年10月11日、

エルサレム市長や水嶋駐イスラエル日本大使、

杉原 千畝(すぎはら ちうね)に助けれた

ユダヤ人の方、その子孫の方々に加え、

杉原 千畝(すぎはら ちうね)の息子さんも参加し、


エルサレム市南西部にある広場が

「チウネ・スギハラ広場」と命名され、

記念式典が行われました。



波乱万丈の人生を駆け抜けた、

杉原 千畝(すぎはら ちうね)が残してくれた言葉とは?

調べてみました。

ぜひ、元気をいっぱいもらってください。




 




唐沢寿明で映画化!反町隆史でドラマ化!海外で評価!杉原千畝の名言

「人道の丘公園」にある「世界に奏でる平和へのビザ」モニュメントを見ながら、杉原千畝の名言を味わっているイメージ写真



・人間としての資質をもち、この手でユダヤ人を救おう!




・私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。

 でなければ私は神に背く。




・私のしたことは外交官としては、間違ったことだったかもしれない。

 しかし 私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった。






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・大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです。




・ユダヤ民族から永遠に恨みを買ってまで、

 旅行書類の不備だとか、公安上の支障云々を口実に

 ビザを拒否しても構わないというのか?

 それが果たして国益に叶うことだというのか?

 苦慮の挙句、私はついに人道主義、博愛主義第一という結論を得ました。



ん~、心に響きますね。










まとめ

「命のビザ」を発行した杉原千畝の功績を称え、後世に伝える「人道の丘公園」にあるパイプオルガンをイメージしている「平和を奏でるモニュメント」



杉原 千畝(すぎはら ちうね)、

自分の立場や地位を顧みず、

人としてどうなのか?

というものさしで、

たくさんの人を救った、

魅力いっぱいの人でした。




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幼い頃から成績は優秀。

父親の希望した進路でなかったため、

仕送りがもらえない厳しい生活で、

複数のアルバイトを掛け持ちするも、

米の価格が急騰した「米騒動」が起こり、

なんとアルバイト先が次々と倒産。




学費と生活費を稼げ亡くなった際に、

たまたま、図書館で

「外交官留学生試験」のことを

知りました。




ここから、覚えてますか?










杉原 千畝(すぎはら ちうね)、

神がかり的な猛勉強で、

見事合格を勝ちとりました。




1919年

早稲田大学を中退し、

外務省の官費留学生として

中華民国のハルビンに派遣されました。




その際、英語ではなく、

今後のロシア語の重要性を、

試験監督官からアドバイスされ、

またまた、

神がかり的な猛勉強で

ロシア語を学んでいきました。




そして、すごい優秀だったため、

生徒という立場から、

ロシア語を教える教師へ。




本当に並々ならぬ、努力家です。












26歳の若さにして、

ロシア問題のエキスパートとして

頭角をあらわしたエピソード!



覚えてますか?



1933年、

ソ連と鉄道に関する譲渡交渉を

杉原 千畝(すぎはら ちうね)が担当し、

ソ連は当初、

なんと、

当時の日本の国家予算の約1割強にあたる、

6億2,500万円を要求してきましたが、

なんと、

1億4,000万円にまで値下げさせました。

本当に脱帽する交渉力です。












その後、1939年、

リトアニアのカウナスという場所にある

日本領事館の領事代理となり、

リトアニアで生活を開始しました。

ここで、外務省からの命令やルールを背きつつ、




また、

ソ連政府や国から再三の退去命令を受けながら、




約1ヶ月間、

寝る間も惜しんでビザを書き続け、




また、

ベルリンへ旅立つ電車の車窓からでも、

手渡されたビザを書き続けたエピソードは、

すごく感動しました。












ここで、もう1回振り返ります。




杉原 千畝(すぎはら ちうね)がピザを発給した枚数は、

約1ヶ月間で、合計で2,139枚。

1ヶ月30日計算でいくと、

なんと1日約71枚にもなります。




この彼の勇気ある行動が数多くのユダヤ人を救い、

「東洋のシンドラー」と呼ばれることになったのです。












その後、

ビザを発給した人物たちとの再会もありましたが、



1986年

東洋のシンドラーと呼ばれた

杉原 千畝(すぎはら ちうね)

86歳でその生涯を閉じました。





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杉原 千畝(すぎはら ちうね)の言葉で、

私が好きなのは、

・大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです。



私が、杉原 千畝(すぎはら ちうね)と同じ立場なら、

同じことができとかと言われると、自信がありません。

当時は今と違って、

転職が当たり前の時代ではなく、

1度入った会社に定年まで勤め、

退職することが普通の時代でしたから・・・

今の日本の立場や地位は、諸先輩方が個人の損得だけでなく、

広い視点で築いてくれた結果だと思いますし、

日本人としてすごく誇りが持てます。

私も日本の諸先輩方ように、個人の損得だけを考えず、

広い視点で生きていくことが大切であると、

改めて考えさせられる言葉でした。

あなたはどう感じますか?











上手くいってるときも、

ピンチでどうしたらいいんだろうとブルーなときも、

歴史の先輩から学ぶ。

先輩たちの人生を参考にしながら、

明日から、

いやいや今から

自分たちも理想的で素敵な人生を送るために、

自分のペースの明るく・楽しく・元気よく

で、過ごしていきましょう。




次回は、


学歴や功績は?どんなエピソードが?カリスマ!田中角栄の生涯と名言


という話を紹介します。

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