
日本よりも台湾で知名度が高く、
特に年配の人への知名度は抜群。
しかも、台湾の教科書でも紹介され、
「台湾の恩人」と称される、
八田 與一(はった よいち)とは、
いったいどんな人物で、どんな人生を歩んだのかを紹介していきます。
1886年、
石川県河北郡花園村(現在の金沢市今町)生まれ、
1910年、
東京帝国大学工学部土木科を卒業後、
台湾総督府内務局土木課の技術者として就職します。
当時の台湾は、日本統治時代となり、
児玉源太郎の補佐役で、
初代民政長官であった後藤新平以来、
マラリアなどの伝染病予防対策に重点が置かれいて、
八田 與一(はった よいち)も就職後の配属先で、
当初は衛生事業に従事し、
嘉義市・台南市・高雄市など、
各都市の上下水道の整備を担当することになり、
この最初の職場で、浜野弥四郎という人物が上司となり、
この上司から多くのことを学びます。
その後、八田 與一(はった よいち)は、
発電事業や水路を作って田畑に必要な水を引く
灌漑(かんがい)事業の部門に異動し、
そして、28歳となった八田 與一(はった よいち)が、
当時着工中であった
桃園大圳(とうえんたいしゅう)の水利工事を任せられ、
この工事を成功させるのです。
その後、31歳で、
外代樹(とよき)と結婚。
公私ともに順調な八田 與一(はった よいち)のその後は、
1918年、八田 與一(はった よいち)は、
台湾南西部の嘉南平野(かなんへいげん)の
調査を行うことになります。
ここは、台湾の中でも広い面積を有していましたが、
昔から台湾でも土壌が良くなく、
さらに降雨が少ない上に、
雨季の時期に、年間雨量の9割が集中、
これにより、元々平坦な土地というだけでなく、
排水も悪かったことから、
洪水や干ばつが繰り返されるという
非常に厳しい土地となります。
ここで、八田 與一(はった よいち)は、
壮大な事業規模となる計画を立てます。
詳細は後ほど、解説します。
その後、
1920年~1930年の10年間、
八田 與一(はった よいち)は、
この壮大な事業を成功させるまで工事を指揮します。
ところが、この事業を成功させるまでに
2つの大きなピンチを迎えるのです。
詳細は後ほど、解説します。
そして1942年、
太平洋戦争中、陸軍の命令によって3人の部下と共に、
フィリピンでの水路を作って田畑に必要な水を引く
灌漑(かんがい)調査のため、
広島県宇品港で客船大洋丸に乗船し、出港。
フィリピンに向かう途中の五島列島付近において、
アメリカ海軍の潜水艦により撃沈され、
八田 與一(はった よいち)も巻き込まれ、
56歳でその生涯を閉じることとなりました。
そんな、
八田 與一(はった よいち)の生涯を
分かりやすく解説させていただきました。
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