写真を見るとイケメン!新撰組!遺体がない??土方歳三の生涯と名言

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五稜郭タワーにある土方歳三の銅像



日本人に人気の時代「幕末」、

その時代に活躍していたのが、「新撰組」




そのチームの主力メンバーで、

現在でもイケメンで女性に人気がある、

土方 歳三(ひじかた としぞう)の

生涯と名言を紹介します。



 





 

写真を見るとイケメン!土方歳三はどんな人物?近藤勇とのエピソード

近藤勇の銅像



土方 歳三(ひじかた としぞう)は、

1835年に誕生します。



武州武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)に

お金持ちの農家の家に、

10人兄弟の末っ子として生まれます。




ただ、

土方 歳三(ひじかた としぞう)が、

生まれる3か月前に父親は亡くなり、

母親も6歳のときに亡くなってしまったため、

2番目のお兄さん夫婦に引き取られて、

育てられることになります。




土方 歳三(ひじかた としぞう)のことを

考えると、両親の愛情を受けられず、

寂しかったでしょうね・・・






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その後、

土方 歳三(ひじかた としぞう)が剣術修行しながら行っていたこととは?

実家で製造・販売していた「石田散薬」という

薬を売りながら、

剣術の修行をするために、

各地の道場に出かけて行って、

試合を重ねていったようです。



ちなみに、

土方 歳三(ひじかた としぞう)の実家で

製造・販売していた「石田散薬」という薬ですが、

なんと、約250年間も製造・販売されていたようです。




1859年、25歳のときに、

天然理心流(てんねんりしんりゅう)という

道場に指導に来ていた、

近藤 勇(こんどう いさむ)と出会い、

そこに入門をすることになります。












1863年、

道場の仲間とともに、

江戸幕府第14代将軍である、

徳川家茂(とくがわ いえもち)が

京都に行くための警護をする組織である、

「浪士組」に応募し、参加します。




「浪士組」に応募し、

参加することを決めた、

土方 歳三(ひじかた としぞう)の

その後の運命は?

 

写真を見るとイケメン!土方歳三【新選組の誕生秘話とその後の活躍】

新撰組の最初の屯所として使われていた、新選組屯所跡・壬生郷士八木邸の写真



ここで、話の流れを分かりやすくするために、

当時の日本の政治スタイルを

ご紹介していきたいと思います。












当時の日本の政治スタイルは、

端的に言うと、

外敵を排除し『天皇を中心』した

国家体制を目指す、「尊王攘夷」派、




朝廷の権威と幕藩体制の改革強化、

つまり『幕府を中心とした』

現状の体制を建て直そうとする「公武合体」派、




考えが大きく違う、

この2つのスタイルに分かれていました。




現代の企業でいうと、

ベンチャー企業と大企業みたいなもんですね。












この浪士組が京都に着いた直後、

思いもよらない出来事が起こります。




浪士組が結成された目的、

覚えてますか?



そうです、

江戸幕府第14代将軍である、

徳川家茂(とくがわ いえもち)が

京都に行くための警護をする組織です。




ということは、

政治スタイルとしては、

朝廷の権威と幕藩体制の改革強化、

つまり『幕府を中心とした』

現状の体制を建て直そうとする「公武合体」派です。



ところが、

この浪士組の先頭に立っていた人物が突然、

「浪士組は、これより尊皇攘夷の先頭に立って戦うことにした!」みたいな・・・




つまり、

外敵を排除し『天皇を中心』した

国家体制を目指す「尊王攘夷」派のような、

真逆のことを言い始め、

参加してた人たちからすれば、

「は!?なに言ってるの」みたいな感じになり、

浪士組はいきなり解散することになります。












多くの人たちは江戸に帰っていきましたが、

土方 歳三(ひじかた としぞう)たちは、

あくまでも幕府のために働くという

当初の志を貫き、

京都に残ることにし、

壬生浪士組(みぶろうしぐみ)という

チーム名を結成します。




その後、

1863年、

八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん)が起ります。






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突然のクーデター!八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん)とは?

『幕府を中心』として、

現状の体制を建て直そうとする「公武合体」派の

薩摩藩や会津藩が、




外敵を排除し『天皇を中心』した

国家体制を目指す、「尊王攘夷」派で、

政変直前まで朝廷の実権を掌握していた

公家や長州藩を

朝廷から突然排除した

クーデターのことを言います。











新撰組がついに誕生


ちなみに、

このクーデター後、

壬生浪士組(みぶろうしぐみ)の

活躍が認められて、

その際にチーム名を変えることになり、

そのチーム名が、

『新撰組』となったのです。












話を元に戻しますね。

このクーデター後、

失着させられた、

外敵を排除し『天皇を中心』した

国家体制を目指す、「尊王攘夷」派の

長州藩がこのまま黙っているはずはありません。




なんと、

京都の町を放火し、

その間に天皇を長州藩側に奪いとるという

壮大かつ恐ろしい計画が進行中であることを、

新撰組がつかみます。






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これはとんでもないことだ!と、

『幕府を中心とした』

現状の体制を建て直そうとする「公武合体」派の

薩摩藩や会津藩にすぐに連絡するも、

会津藩の動きが非常に遅いので、




なんと、

近藤隊と土方隊で手分けをして

独自捜査を始めるのです。




そして、

ついに、あの「池田屋事件」が勃発します。











新撰組の名を全国に有名にした池田屋事件が勃発


近藤隊が

まず三条小橋(現在の京都市中京区三条通中島町)にあった、

池田屋という旅館で集まっていた

実行役と思われる、

浪士たちを発見します。




その数20名以上。




その20名以上の浪士たち対し、

近藤隊はなんと!

たった4人で乗りこんでいきます。




遅れて到着した土方隊は、

すでに戦闘中だった

近藤隊を援護するとともに、




土方隊のさらに後にやってきて、

美味しいタイミングに来て、

手柄だけを持って行こうとする

会津藩たちを中に入れず、

外で待機するように制します。




この緊迫した状況下において、

土方 歳三(ひじかた としぞう)の

冷静な状況判断能力と対応などにより、

新撰組の活躍と手柄はキチント守られ、

新撰組の名前が、京都だけでなく、

全国に広がっていくこととなるのです!!












ちなみに、自分が習った頃は、

「新撰組」でしたが、

隊の公印が押された文献では、

「選」の文字が使用されているため、

2004年ぐらいから、

高校の教科書では「新選組」の表記が

増えてきているようですが、

私が習った、

「新撰組」で引き続き解説していきます。



話が脱線しましたね。

元に戻します。




新撰組の名を

歴史に刻むことに成功させた人物、

土方 歳三(ひじかた としぞう)の

その後の運命はいかに?




 




イケメン土方歳三の遺体がない?【ロシアまで落ち延びたという説も】

幕末に築かれた星形の要塞で函館のシンボル!五稜郭の写真



1867年、

土方 歳三(ひじかた としぞう)は、

幕臣に取り立てられますが、

同じ年に、

徳川慶喜が明治天皇に政権を

返上した出来事覚えてますか?




そうです。

大政奉還し、

265年続いた江戸幕府が、

ついに終わりを迎えるのです。












翌年の1868年、

戊辰戦争(ぼしんせんそう)の初戦となる

鳥羽・伏見の戦いが始ります。


ここで、

戊辰戦争(ぼしんせんそう)

を簡単に解説します。




戊辰戦争(ぼしんせんそう)とは、

明治政府を樹立した

薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、




旧幕府勢力と現代でいうと

北海道、青森県、秋田県、岩手県、山形県、

宮城県、福島県の連合チームの総称である、

奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)が

タッグを組んで戦った

日本の内戦のことを指します。




土方 歳三(ひじかた としぞう)は、

旧幕府勢力と現代でいうと

北海道、青森県、秋田県、岩手県、山形県、

宮城県、福島県の連合チームの総称である、

奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)の

タッグチームに

属していました。






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戊辰戦争(ぼしんせんそう)初戦となる鳥羽・伏見の戦いの結果

土方 歳三(ひじかた としぞう)が、

新撰組を率いて戦いましたが、

新政府軍の力に圧倒され、

負けてしまいます。




その後、

土方 歳三(ひじかた としぞう)は、

大阪から江戸(現在の東京)へ撤退し、

その後、内藤隼人と偽名を名乗りつつ、

新撰組を「甲陽鎮撫隊」に改名して

甲斐国(現在の山梨県)に向かいます。









2回戦目

甲州勝沼の戦いでも大敗。



3回戦目

宇都宮城の戦いでは、

なんとか勝利。



4回戦目

壬生の戦い(みぶのたたかい)では敗れ、

足を負傷します。



5回戦目

足を完全に治し、復帰した

母成峠の戦いでも、

敗れてしまいます。












その後、

蝦夷地(現在の北海道)に向かい、

体制を整えます。




1869年、

ついに新政府軍が

土方 歳三(ひじかた としぞう)のいる、

蝦夷地(現在の北海道)に上陸。



6回戦目

二股口の戦いが始まります。




土方 歳三(ひじかた としぞう)が指揮し、

守っていた場所では勝ち続けていましたが、

他の人が率いていた場所が負けてしまい、

敢えなく退却することとなります。












そして、

7回戦目の最終戦


新政府軍の総攻撃が開始されます。

この時、土方 歳三(ひじかた としぞう)は、

馬の上から指揮を執っていましたが、

戦闘中に腹部に銃弾を受け、

落馬し、

死亡したとされています。












が、しかし!!

未だに埋葬場所が判明していないことから、



土方 歳三(ひじかた としぞう)は実は生きていた?

という説が浮上しているのです。


土方 歳三(ひじかた としぞう)が、

死んだとされた後の戦いの絵画にその姿が描かれていることや、

ロシアまで落ち延びたという説まで噂されている、

なんともミステリアスな人物です。

これが本当だったら、ビックリですね。











現代では、

●小説

・司馬遼太郎「燃えよ剣」




・童門冬二「土方歳三 物語と史蹟をたずねて」




・池波正太郎「色」(短編集「炎の武士」収録)





●漫画

・碧也ぴんく「星のとりで〜箱館新戦記〜」




・かれん「歳三梅いちりん〜新選組吉原異聞〜」




・赤名修「賊軍 土方歳三」





など、

数々の作品にも取り上げられています。






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また、イケメンで女性に人気があることから、

女性向け恋愛アドベンチャーゲーム、

「薄桜鬼 ~新選組奇譚~」

(はくおうき しんせんぐみきたん)でも、

メインキャラクターとして登場する、

土方 歳三(ひじかた としぞう)は、

35歳でその生涯を閉じました。










また、土方歳三をもっと詳しく知りたい方は、

本だけでなく、マンガやDVDもありますので、

ぜひ、ご覧ください。




土方歳三 幕末・維新人物伝 (コミック版日本の歴史)



土方歳三新撰組を組織した男 (中公文庫)



土方歳三日記(上) 生い立ち、上京、新選組結成、そして池田屋事件 (ちくま学芸文庫)



土方歳三日記(下) 新選組副長、鳥羽伏見戦、箱館戦争、そして散華 (ちくま学芸文庫)



官賊に恭順せず 新撰組土方歳三という生き方



新・歴史人物伝 土方歳三



新選組!!土方歳三 最期の一日 【DVD】






そんな時代の主人公の1人として、

人生を駆け抜けた、

土方 歳三(ひじかた としぞう)が

残してくれた言葉とは?

調べてみました。

ぜひ、元気をいっぱいもらってください。






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やっぱりイケメン!遺体がない?生き延びた?新撰組!土方歳三の名言

函館山から函館の夜景を見て、新撰組土方歳三の名言を想像している写真イメージ



・皆、自分の道をゆこう。




我、将来武人となりて、名を天下に挙げん。

 未来だけは、いやにはっきりとした姿で、私の眼の前にある。




・一日過ぎると、その一日を忘れるようにしている。

 過去はもう私にとって何の意味もない。




・目的は単純であるべきである。思想は単純であるべきである。




・勝てるか勝てないか、やってみなければわからないよ。

 おらァもう、勝敗は考えない。ただ命のある限り戦う。

 どうやらおれのおもしろい生涯が、やっと幕をあけたようだ。




・知れば迷ひ、知らねば迷はぬ、恋の道。




・昨日の夕陽が、きょうも見られるというぐあいに、

 人の世はできないものらしい。

 

まとめ

新撰組土方歳三の菩提寺、日野市にある高幡不動尊金剛寺奥殿を訪れ、土方歳三の生涯と名言を知って心が晴れ晴れとするイメージ写真



土方 歳三(ひじかた としぞう)

本当に魅力的な人物でした。




国の歴史が大きく変わるタイミングで、

懸命に生き、歴史を残した、

顔も含めて、生き方も、

カッコイイと思いました。




土方 歳三(ひじかた としぞう)の人生を

改めて、振り返ってみましょう。











お金持ちの農家の家に生まれるも、

父親の顔は見たこともなく、

母親も6歳のときに

亡くなってしまいました。

両親の愛情を受けられず、寂しかったと思います。
その後、意外でしたね、

実家で製造・販売していた「石田散薬」という



その後は、

薬を売りながら、

剣術の修行しつつ、

1859年、25歳のときに、

近藤 勇(こんどう いさむ)と

運命的な出会いを果たしました。




その後、

京都に行き、幕府のために働く、

チーム名、

壬生浪士組(みぶろうしぐみ)を経て、

ついに、

新撰組が誕生しました。






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この次ですね、

あの事件です。

覚えてますか?










外敵を排除し『天皇を中心』した

国家体制を目指す、

「尊王攘夷」派の長州藩が、

京都の町を放火し、

その間に天皇を長州藩側に奪いとるという

壮大かつ恐ろしい計画が進行中であることを、

新撰組がつかみました。




その実行犯とされた浪士たちを倒した、

あの「池田屋事件」が勃発します。




覚えてますか?




20名以上をたった4人で、

乗りこんで勝利し、

新撰組の名前が、

京都だけでなく、

全国に広がっていくこととなりました。












その後、1867年、

土方 歳三(ひじかた としぞう)は、

幕臣に取り立てられるも、




1868年からスタートした、

戊辰戦争(ぼしんせんそう)




7回戦目の最終戦で、

馬の上から指揮を執っていましたが、

戦闘中に腹部に銃弾を受け、

落馬し、

死亡したとされています。












が、しかし!!

未だに埋葬場所が判明していないことから、

生存説まで浮上しています。




土方 歳三(ひじかた としぞう)が、

死んだとされた後の戦いの絵画に

その姿が描かれていることや、

ロシアまで落ち延びたという説まで噂されている、

なんともミステリアスな人物です。












その時代の主人公の1人として35年の人生を

駆け抜けた、

土方 歳三(ひじかた としぞう)が

残してくれた言葉で、

自分が好きなのは、

この名言2つです。




・勝てるか勝てないか、やってみなければわからないよ。

 おらァもう、勝敗は考えない。ただ命のある限り戦う。

 どうやらおれのおもしろい生涯が、やっと幕をあけたようだ。




・皆、自分の道をゆこう。




人間死を覚悟したときに、

『やって失敗した後悔より、

やらなくて後悔した失敗を悔やむ』そうです。




人生は1度きり!

自分の好きなことや大変だけど楽しい仕事をしているかい?

と、

土方 歳三(ひじかた としぞう)が語り変えてくるような、

そんなすごく味のある、

ズシリとくる言葉だと思います。

あなたはどう感じましたか?











上手くいってるときも、

ピンチでどうしたらいいんだろうとブルーなときも、

歴史の先輩から学ぶ。

先輩たちの人生を参考にしながら、

明日から、

いやいや今から

自分たちも理想的で素敵な人生を送るために、

自分のペースの明るく・楽しく・元気よく

で、過ごしていきましょう。










次回は、


歴史上の人物!ランキング!日本人編!生き方と名言から励まされよう


という話を紹介します。

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