日本の歴史上最大級一揆!島原の乱で有名な天草四郎の生涯と名言とは

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天草四郎の銅像



様々な奇跡を起こしたという逸話の正体は、

実は●●だった?




「島原の乱」で有名で人気が高い、

天草四郎の生涯と名言を紹介します。






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キリシタン大名で

関ヶ原の戦いに敗れて斬首された

小西行長の旧家臣・益田好次(ますだよしつぐ)の子として、

大矢野島(現在の熊本県上天草市)で

生まれたとされていますが、

出生地がはっきりしないだけでなく、

生まれた年もまだ分かっていない状況です。




益田家は小西氏滅亡後、

浪人百姓として一家で

肥後国宇土郡江部村(現在の熊本県宇土市)に居住し、

天草四郎はここで成長。




勉強のために何度か長崎を訪れ、

キリスト教に入信しました。












そして、

一揆の直前に

父親の益田好次(ますだよしつぐ)に伴われて、

天草へ移ってきたと伝えられています。




天草四郎が、

小西行長の旧家臣やキリシタンの間で救世主として擁立、

神格化された人物であると考えられていました。

その理由をのちほど解説します。




そしてついに、

1637年、

あの一揆、

「島原の乱」を起こし、

この乱により、

生涯を閉じることとなります。












島原の乱を起こした理由は?



どんな戦い方をしたのか?



天草四郎の最期は?



そして、

天草四郎の本当の父親はいったい?




さらに、

天草四郎には実は妻がいた?




そんな、

天草四郎の生涯と名言を

分かりやすく解説させていただきます。




 



歴史上の人物!人気ランキングでつねに登場する天草四郎はどんな人物

天草諸島



キリシタン大名で

関ヶ原の戦いに敗れて斬首された

小西行長の旧家臣・益田好次(ますだよしつぐ)の子として、

大矢野島(現在の熊本県上天草市)で

生まれたとされていますが、

肥後国宇土郡江部村(現在の熊本県宇土市)や

長崎出身という説もあるなど

出生地がはっきりしないだけでなく、

生まれた年もまだ分かっていません。




益田家は小西氏滅亡後、

浪人百姓として一家で

肥後国宇土郡江部村(現在の熊本県宇土市)に居住し、

天草四郎はここで成長します。




勉強のために何度か長崎を訪れ、

キリスト教に入信します。




そして、

一揆の直前に

父親の益田好次(ますだよしつぐ)に伴われて、

天草へ移ってきたと伝えられています。




天草四郎が、

小西行長の旧家臣やキリシタンの間で

救世主として擁立、

神格化された人物であると考えられています。








天草四郎が救世主として擁立され、神格化された理由とは?


盲目の少女に触ると視力を取り戻した、

海面を歩いたなど、

様々な奇跡を起こしたという

逸話があるからです。






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天草四郎が様々な奇跡を起こすことができた理由には実は仕掛けがあった?

様々な奇跡は、

実は

南蛮手妻(現在で表現すると手品やマジック)で

あったとも考えられます。











天草四郎が様々な奇跡を起こすことができた理由とは?

実は当時、豊後(現在の大分県)から出現し、

全九州を統一しそうな勢いのあった、

大友 宗麟(おおとも そうりん)の家臣に、

角隈 石宗(つのくま せきそう)という人物が、

南蛮手妻(現在で表現すると手品やマジック)の

使い手であったとされています。




どんな技を使ったのかというと、

主に使っている刀が壊れて使えなくなった時にだけ

使用する小刀を、

空から降らせたり、




また、

谷に投げ込み、風を巻き起こして

元の場所へ戻すことも

できたと伝えられています。




天草四郎は、

同じ九州の地域にいただけに、

南蛮手妻(現在で表現すると手品やマジック)の

情報や技術を学ぶ土壌が

十分にあったと推測できるからです。












そしてついに、

江戸時代初期に起こった

日本の歴史上最大規模の一揆、

「島原の乱」を起こします。




話は変わりますが、

神秘に包まれた天草四郎ですが、

久留米の商人が、

私は天草四郎を

目撃したという古文書が残されていて、

それによると、




天草四郎は、

「白い絹の着物とはかまを着て、

 頭には苧(からむし)を三つ組にしてあて、

 緒をつけのど下にてとめて、

 額には小さな十字架を立てていた。

 そして、手には御幣(ごへい)を持って、

 一揆軍を指揮していた」と

詳細が描写されています。




話を元に元に戻します。




その後の天草四郎は

どんな展開だったのか、

解説していきます。

 









一揆で有名な天草四郎が人気の理由とは?豊臣秀吉との驚きの関係とは

島原城



1637年、

あの一揆、

「島原の乱」を起こします。



江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆「島原の乱」がなぜ起きたのか?

島原藩による、

年貢の取り立てが過酷であるだけでなく、

そこに日照りによる凶作の年が続き、

それにより、

餓死寸前まで追い詰めれた農民と、




以前から宗教弾圧を受けていたキリシタンが

タッグを組んだ、

幕末以前では最後の本格的な内戦

なったのです。




天草四郎は、

先ほども紹介したように、

南蛮手妻(現在で表現すると手品やマジック)よる

奇跡を起こすだけでなく、



ある出来事がきっかけとなり、

人気にさらに拍車をかけていくことになりました。










天草四郎の人気がさらに拍車かけた理由とは?

それは1613年、

キリシタン弾圧により、

島原を追放されることになった

マルコス宣教師が、

「25年後に神の子が出現して人々を救うだろう」と

予言して日本を去って行きました。




その25年後の1637年に少年になっていたのが、

天草四朗だったのです。




この2つの奇跡と出来事が重なり合い、

天草四郎はカリスマ的な人気を背景に、

一揆軍の総大将となるのです。












ただし、

天草四郎は当時まだ10代半ばの少年であったため、

実際に乱を計画・指揮していたのは、

牢人たちで、

天草四郎自体は

一揆軍の戦意高揚のためのカリスマ的人物として

利用されていたに過ぎないと思われます。




そんな一揆軍の総数は、

女性や子どもも合わせると、

なんと、2万を超えるまでとなります。




そして同年12月、

一揆軍は当時すでに廃城となっていた

原城に立てこもります。




幕府軍は5万の兵力、

立てこもる一揆軍は、

3万7千となります。




先ほどの2万から3万7千と

一揆軍の兵力が大幅に増えた理由としては、

徳川政権下で平和になり、

戦争がなくなってしまい、

元々武士だった人たちが働く場所がなくなり、

しょうがなく牢人となった人たちが、

「これの乱をキッカケに改めて、戦国の世に戻るかもしれない」という

期待があり、集まってきたことが挙げられます。




そうはいっても、

兵力差は明白です。




あっという間に

幕府軍の勝利で決着がつくと思いきや、

なんと、一揆軍は善戦します。






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その理由としては、

農民およびキリシタンは

死を覚悟した戦い方をしていたこと、




また、

一揆軍に参加している牢人の多くは、

「関ヶ原の戦い」や「大坂の陣」で

戦い生き残った、

猛者たちだったからです。




そして、

幕府軍指揮官の板倉重昌(いたくらしげまさ)を

討ち取ります。




次の指揮官として派遣された、

幕府軍、

松平信綱(まつだいらのぶつな)と

戸田氏鉄(とだうじかね)は、

まずは無理して戦わず、

持久戦をとりました。




その後、

幕府軍が12万人の兵力となったタイミングで、

陸と海から砲撃されます。




一揆軍は、なんとか3ヵ月間は、

持ちこたえたものの、

食料も弾薬も尽きて原城はついに陥落、

一揆軍は幕府軍の総攻撃により、

天草四郎もついに討ち取られてしまいます。












唯一生き残ったのは、

裏切り者の山田右衛門作という人物、

ただ1人だけであったとされています。




なお、この時、

幕府側には

天草四郎の姿や容貌の情報が全く伝わっておらず、

幕府軍の陣には、

天草四郎と同じ年頃と思われる

少年たちの首が

次々に持ち込まれたといいます。




この陣に、

以前から幕府軍に捕えられていた

天草四郎の母親に

持ち込まれたこれらの首を次々と見せていったところ、

陣佐左衛門という人物が

持って来た首を見て

顔色を変え、その場で泣き崩れます。




この光景を見て、

幕府軍は

陣佐左衛門が持って来た首を天草四郎の首と

断定しました。




天草四郎は、この戦いにより、

生涯を閉じることとなりました。












現在では、

原城跡をはじめ天草、島原地域の至る場所に

天草四郎をイメージした銅像が建てられています。




また、

天草四郎を中心に、島原の乱や当時の南蛮文化、

キリスト教伝来の様子などを紹介するために作られた、

「天草四郎メモリアルホール」は、

2018年に

天草四郎ミュージアム」と名称が変更されています。










最後に、

天草四郎のまことしやかに伝えられている

天草四郎の本当の父親は実は

豊臣秀頼の落胤(らくいん)で

あるとする説があります。




落胤(らくいん)とは、

身分・地位のある男が正妻でない

女性にひそかに生ませた子のことを指します。




つまり、

豊臣秀吉の孫である可能性があるのです。



その理由としては、

天草四郎が戦場で使う旗のデザインが、

豊臣秀吉のものと同じ

瓢箪(ひょうたん)であることなどから、

「大坂夏の陣」において死亡したはずの

豊臣秀頼が実は大坂城を脱出して、

薩摩国へ逃れていたと

伝えられているからです。





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さらに最近、

「天草陣雑記(あまくさじんざっき)」


「綿考輯録(めんこうしゅうろく)」


という資料から、



実は、

天草四郎には妻がいたのではないか?

という説も出てきています。












現代では、



・小説

 西村京太郎作品、

 『天草四郎の犯罪』 



・映画

 2003年版 、窪塚洋介主演、

 『魔界転生』



・演劇作品

 2018年7月-10月、宝塚歌劇団 明日海りお出演、

 『MESSIAH -異聞・天草四郎-』



・漫画

  いがらしゆみこ作品、

 『神(デウス)の御子 天草四郎物語』



・ゲーム

 1996年、 SNK、

 『サムライスピリッツ 天草降臨』



など、

数々の作品にも取り上げられています。











また、

天草四郎をもっと詳しく知りたい方は、

マンガだけでなく、DVDもありますので、

ぜひ、ご覧ください。





江戸人物伝 天草四郎 江戸人物伝 (コミック版日本の歴史)




Q&A天草四郎と島原の乱



天草四郎



島原・天草一揆 少年天草四郎の決起 (江戸幕府と7つの事件簿)



天草四郎時貞 [DVD]





そんな彼の名言とは?

調べてみました。

ぜひ、元気をいっぱいもらってください。

 










奇跡を起こす!人気ランキングでつねに登場する、天草四郎の名言は?

原城跡に佇む海を見つめる3体の石像



・いま籠城している者たちは、来世まで友になる。




ん~、心に響きますね。

 









まとめ

原城跡にある天草四郎の墓碑

 

天草四郎の生涯を

振り返ってみましょう。




キリシタン大名で関ヶ原の戦いに敗れて斬首された

小西行長の旧家臣

益田好次(ますだよしつぐ)の子として、

大矢野島(現在の熊本県上天草市)で

生まれたとされていますが、

出生地がはっきりしないだけでなく、

生まれた年もまだ分かっていませんでした。




益田家は小西氏滅亡後、

浪人百姓として一家で

肥後国宇土郡江部村(現在の熊本県宇土市)に居住し、

天草四郎はここで成長、




勉強のために何度か長崎を訪れ、

キリスト教に入信しました。










そして、

一揆の直前に

父親の益田好次(ますだよしつぐ)に伴われて、

天草へ移ってきたと伝えられています。




天草四郎が、

小西行長の旧家臣や

キリシタンの間で救世主として擁立、

神格化された人物であると考えられていました。




その理由、覚えていますか?












盲目の少女に触れると視力を取り戻した、

海面を歩いたなど、

様々な奇跡を起こしたという逸話が

あったからです。




これらの様々な奇跡は、

実は

南蛮手妻(現在で表現すると手品やマジック)で

あったと推測されていました。




そしてついに、

1637年、

江戸時代初期に起こった

日本の歴史上最大規模の一揆、

「島原の乱」を起こします。












天草四郎は、

先ほども紹介したように、

南蛮手妻(現在で表現すると手品やマジック)よる

奇跡を起こすだけでなく、

ある出来事がきっかけとなり、

人気にさらに拍車をかけていくことになりました。



それは1613年、

キリシタン弾圧により、

島原を追放されることになった

マルコス宣教師が、

「25年後に神の子が出現して人々を救うだろう」と

予言して日本を去って行き、



その25年後の1637年に

少年になっていたのが、

天草四朗だったのです。











この2つの奇跡と出来事が重なり合い、




天草四郎はなんと、

カリスマ的な人気を背景に

一揆軍の総大将となりました。




一揆軍の総数は、

女性や子どもも合わせると、

なんと、

2万を超えるまでとなりました。




そして同年12月、

一揆軍は当時すでに廃城となっていた

原城に立てこもりました。












幕府軍は5万の兵力、

立てこもる一揆軍は、3万7千。



先ほどの2万から3万7千と

一揆軍の兵力が増えた理由、

覚えてますか?



徳川政権下で平和になり、

戦争がなくなってしまい、

元々武士だった人たちが働く場所がなくなり、

しょうがなく牢人となった人たちが、

集まってきたことが挙げられました。




一揆軍は善戦するも、

幕府軍は12万人の兵力となったタイミングで、

陸と海から砲撃され、

一揆軍は、なんとか3ヵ月間は、

持ちこたえたものの、

食料も弾薬も尽きて原城は陥落、

一揆軍は幕府軍の総攻撃により、

天草四郎もついに討ち取られて、

この戦いにより、

生涯を閉じることとなりました。













そんな天草四郎が

残してくれた言葉、



・いま籠城している者たちは、来世まで友になる。



圧倒的な不利な状況下で、勝つために、

カリスマとして見られている自分の立場を把握し、

仲間の気持ちを奮い立たせ、

そして、一体感を生ませるための

ステキな言葉だと思いました。



やはり言葉は、

発する人により、

また、発する内容により、

人だけなく、自分も勇気づけられ、

そして前向きに行動するための

『栄養素』であると、

改めて認識できました。

あなたはどう感じましたか?











上手くいってるときも、

ピンチでどうしたらいいんだろうとブルーなときも、

歴史の先輩から学ぶ。

先輩たちの人生を参考にしながら、

明日から、

いやいや今から

自分たちも理想的で素敵な人生を送るために、

自分のペースの明るく・楽しく・元気よく

で、過ごしていきましょう。










次回は、


漫画「花の慶次」で有名に!かぶきもので人気の前田慶次の生涯と名言


という話を紹介します。


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