財政再建のプロとして、
大飢饉に苦しむ地域や
多数の藩を復興させた人物、
二宮金次郎の生涯と名言を紹介します。
目次
銅像で有名!何した人?わかりやすく解説!二宮金次郎とはどんな人物
1787年
相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山(かやま))に、
裕福な農家の長男として生まれます。
多数の田畑や立派な家を受け継いでいた父親ですが・・・
金遣いが荒く、
どんどん資産がなくなっていきます。
そんな矢先の1791年、
二宮金次郎が5歳の夏、異常気象となり、
住んでいた近くの酒匂川(さかわがわ)が決壊、
地域一帯が濁流にのみ込まれてしまいます。
これにより、
田畑は泥だらけとなるだけでなく、
家も流されてしまいました。
田畑は耕し続け数年で元に戻りましたが、
借金を抱えることとなり、
一家は裕福な家庭から一転、
苦しい家庭へと転落してしまうのです。
1797年
二宮金次郎が12歳のとき、
酒匂川(さかわがわ)堤防工事のため、
現代風でいうと、
強制的に働かないといけない状況となりますが、
父親が病気のため、
代わりに、
二宮金次郎が働くこととなります。
二宮金次郎の行動に驚き
他の大人の人と比べると、
自分の働き方が足りないことに満足せず、
その足りない分を他で埋めようとします。
なんと、働いた後の夜に、
草鞋(わらじ)を作り
他の人に配布するという行動に出るのです。
そして、1800年
父親が病気で亡くなり、
14歳の二宮金次郎が
家族4人の家計を支えるため、
朝は早起きして山に薪をとりに行き、
夜遅くまで草鞋(わらじ)作りをするなど、
懸命に働きます。
その2年後、1802年
貧困生活の中、
次は母親が亡くなってしまい・・・
まだ小さい2人の弟を母の実家に預け、
二宮金次郎は
祖父の家にお世話になることになります。
二宮金次郎にまたも試練
あの酒匂川(さかわがわ)がまた氾濫し、
田畑は泥だらけとなるだけでなく、
すべて流されてしまうのです。
その後、
二宮金次郎は祖父の家でお世話になるため、
身を粉にしながら、
農業に全力を傾け働きつつ、
夜に読書も怠らず、
勉強します。
夜に読書もする姿を見て、
祖父が一言、
「灯油の無駄使い」といって、
嫌味を言い続けます。
要は祖父はケチなのです。
夜に読書もする姿を見た祖父の嫌味に二宮金次郎がした秘策
灯油の取れる花を自分で植え、
それを収穫し使うことで、
祖父の嫌味から解放されたのです。
1804年
祖父の家を出て、
親戚の家を転々としながら、
資金を協力してもらい、
1806年
生家に戻り、復興に邁進します。
当時、20歳。
まず家を修復しながら、
昔持っていた田畑を買い戻し、
その田畑を人に貸し、
収入を増やしていきます。
そして、
ついに生家の再興に成功します。
その後、
二宮金次郎は地主として、
また農園の経営者をしながら、
小田原に出て、
武家奉公人としても働きます。
話は変わりますが、
この当時の二宮金次郎の体格に驚き
身長が約180cm、
体重は94kgあったと言われています。
まるで、プロ野球選手みたいですね。
話を元に戻します。
波乱万丈の人生から、
安定した人生へと歩みだした
二宮金次郎
その後、どんな展開となるのか?
解説していきます。
映画に!二宮金次郎は何した人?わかりりやすく解説!財政再建のプロ
1808年
母の実家である、
川久保家が財政的にピンチになると、
資金援助し、
復興させます。
また、
小田原藩家老、服部家の建て直しを依頼された際、
節約生活を5年間続けたら、
必ず建て直せると宣言し、
その通りの結果を出します。
・自分の家
・母の実家
・小田原藩家老、服部家
3つの家を建て直した、二宮金次郎。
財政再建のプロとして、
瞬く間に、
小田原藩内で
一目置かれる人物となっていきます。
1816年
結婚
1819年
長男が生まれるも、
すぐ亡くなってしまうのをキッカケに離婚
1820年
二宮金次郎が34歳のときに、
なんと17歳差の16歳の女性と再婚します。
その後、1821年
小田原藩主、大久保忠真から、
荒れ果てた状態になっている、
身内の家、
下野国芳賀郡桜町(現在の栃木県真岡市)の
復興の指示を受けます。
荒れ果てた状態を見た二宮金次郎が行った施策とは
分かりやすくするために、
ここから現代風で紹介していきます。
まずは、
村の村長という役職と破格のコンサル料で、
桜町に移住して再建に着手します。
しかし、
再建当初は村民などの抵抗などもあり、
結果が出ない状況が続きますが・・・
さすが、
二宮金次郎、最後は必ず結果を残す男です。
どうしたかというと、
まずは、
売り上げをどんどん上げる施策を実施します。
この施策が成功すると、
売り上げがどんどん上がり、
組織はイケイケ・ドンドン状態となります。
そうなると、
組織の雰囲気も良くなり、
ますます、
売り上げが上がる状態となりますが、
その分、
固定費、変動費もどんどん増やす傾向になりますが、
ここに策を講じます。
立て直しが順調の状況の中で二宮金次郎が行った施策とは
簡単に言うと、
売り上げの状況を見ながら、
固定費、変動費の限度額を決め、
そのルールに従わせたのです。
この方法は、
「報徳仕法(ほうとくしほう)」と呼ばれ、
のちに他の藩でも模範となっていきます。
ちなみに、この時代に、
二宮金次郎のすごい噂
が残っています。
二宮金次郎があるときナスを食べたところ、
その味から今年の夏は冷夏になると予想。
冷害に強いヒエを大量に作るように推し進めたようです。
ちなみにヒエとは、お米だけでなく、
昆布や大根などと一緒に混ぜて
炊く食料のようです。
二宮金次郎の予想通り、
大雨や洪水だけでなく、
なんと、
稲刈りの時期に雪が降ったという
記録になるほどのとんでもない冷夏となり、
天保の大飢饉が発生したのです。
この天保の大飢饉の際、
下野国芳賀郡桜町(現在の栃木県真岡市)では、
二宮金次郎の対策により、
なんと、
餓死者が出ることはなかったとのことです。
この下野国芳賀郡桜町(現在の栃木県真岡市)の
復興の実績もあり、
財政再建のプロとしてますます名を馳せ、
その後も、
大飢饉に苦しむ地域や多数の藩の復興に尽力し、
結果を出し、
幕府に雇われるまでになります。
その後、順調に活躍するだけでなく、
弟子たちも育て、
下野国今市村(現在の栃木県日光市)という地において、
二宮金次郎
1856年
70歳でその生涯を閉じることとなりました。
現代では、
●映画
・1957年、山本豊三出演
「二宮尊徳の少年時代」
・1998年、林泰文出演
「二宮金次郎物語 愛と情熱のかぎり」
・2019年、合田雅吏出演
「二宮金次郎」
●テレビ
・1973年、NHK、青島幸男出演
「天下堂々」
・2017年、BSジャパン、筧利夫出演
「池波正太郎時代劇 光と影」第4話「二宮尊徳 秘話」
●小説
・集英社文庫 童門冬二
「小説 二宮金次郎」
・谷中・首ふり坂収録、新潮文庫 池波正太郎
「尊徳雲がくれ」
など、
数々の作品にも取り上げられています。
また、二宮金次郎をもっと詳しく知りたい方は、
本だけでなく、マンガやDVDもありますので、
ぜひ、ご覧ください。
二宮金次郎の幸福論 運命を高める55の金言
二宮金次郎 日本人のこころの言葉
二宮金次郎 農業の発展につくした偉人 (学習漫画・世界の伝記)【マンガ】
二宮金次郎の言葉と仕事 実はこんなにすごい再建の神様 (じっぴコンパクト新書)
二宮金次郎物語 愛と情熱のかぎり【DVD】
さらに、
映画の主人公となる二宮金次郎は、
ドラッカー、松下幸之助、
渋沢栄一からも高く評価され、
日本的経営の源流とも言われています。
そのため、
多くの経営者、
ビジネスパーソンから厚い支持を集めています。
財政再建のプロとして名を馳せた、
二宮金次郎が
残してくれた言葉とは?
調べてみました。
ぜひ、元気をいっぱいもらってください。
銅像で有名!映画にも!財政再建のプロとして尊敬!二宮金次郎の名言
・大事を成さんと欲する者は、まず小事を務むべし。
大事を成さんと欲して小事を怠り、
その成り難きを憂いて、成り易きを務めざる者は、小人の常なり。
それ小を積めば大となる。
・貧富の違いは、分度を守るか失うかによる。
・貧となり富となる。
偶然にあらず、
富も因て来る処あり、貧も因て来る処あり。
人皆貨財は富者の処に集まると思へども然らず。
節約なる処と勉強する所に集まるなり。
・キュウリを植えればキュウリと別のものが収穫できると思うな。
人は自分の植えたものを収穫するのである。
・誠実にして、はじめて禍(わざわい)を福に変えることができる。
術策は役に立たない。
・人々にはそれぞれ長所もあり、短所があるのは仕方がない。
相手の長じているところを友として
劣っているところは友としてはいけない。
人の短所を捨て、長所を友とするのだ。
・すべての商売は、売りて喜び、買いて喜ぶようにすべし。
売りて喜び買いて喜ばざるは道にあらず。
貸借の道も、また貸して喜び、借りて喜ばざるは道にあらず。
・道徳を忘れた経済は、罪悪である。
経済を忘れた道徳は、寝言である。
・善悪と言っても、天が決めたものではなく
結局、人間にとって便利かどうかだけの話である。
ん~、心に響きますね。
まとめ
財政再建のプロとして、
大飢饉に苦しむ地域や多数の藩を復興させた
立派な人物、二宮金次郎の
生涯を振り返ってみましょう。
1787年
相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山(かやま))に、
裕福な農家の長男として生まれるも、
父親が金遣いが荒く、
どんどん資産がなくなっていく状況で、
二宮金次郎が5歳の夏、異常気象となり、
住んでいた近くの酒匂川(さかわがわ)が決壊、
田畑は泥だらけとなるだけでなく、
家も流されてしまい、
一家は裕福な家庭から一転、
苦しい家庭へと転落してしまいました。
1797年
二宮金次郎が12歳のとき、
父親に変わって参加した、
酒匂川(さかわがわ)堤防工事の時の対応、
ここで、
二宮金次郎のすごさ覚えていますか?
他の大人の人と比べると、
自分の働き方が足りないことに満足せず、
その足りない分を他で埋めようと、
働いた後の夜に、
草鞋(わらじ)を作り
他の人に配布するという行動、
すごいストイックで感心しました!!
そして、1800年
父親が病気で亡くなり、
14歳の二宮金次郎が家族4人の家計を支えるため、
朝は早起きして山に薪をとりに行き、
夜遅くまで草鞋(わらじ)作りをするなど、
懸命に働きました。
しかし、
またもや試練が!
あの酒匂川(さかわがわ)がまた氾濫し、
田畑は泥だらけとなるだけでなく、
すべて流されてしまうのです。
普通ならもうダメだと
諦めてしまいますが、
ここからも努力する立派ですごい人物でした。
その後、
二宮金次郎は祖父の家でお世話になるため、
身を粉にしながら、
農業に全力を傾け働きつつ、
夜に読書も怠らず、
勉強します。
夜に読書もする姿を見て、
ケチな祖父が一言、
「灯油の無駄使い」と言われた状況下で、
灯油の取れる花を自分で植え、
それを収穫するなど、
勉強を続けました。
そんな姿に
みんなも応援するようになったと思います。
1804年
祖父の家を出て、
親戚の家を転々としながら、
資金を協力してもらい、
ついに、
家を修復し、昔持っていた田畑を買い戻し、
その田畑を人に貸し、
収入を増やしていき、
そして、
生家の再興に成功。
その後、
二宮金次郎は地主として、
また農園の経営者をしながら、
小田原に出て、
武家奉公人としても働きました。
波乱万丈の人生から、
安定した人生へと歩みだした
二宮金次郎のその後を覚えてますか?
・自分の家
・母の実家
・小田原藩家老、服部家
を復興させ、
財政再建のプロとして名を馳せていきました。
そのやり方、覚えてますか?
まずは、
節約生活をベースにすることはもちろんのこと、
売り上げに応じて、
固定費、変動費の限度額を決め、
そのルールに従わせた、
「報徳仕法(ほうとくしほう)」と
呼ばれた方法でした。
また、
ナスを食べた時に、
その味から今年の夏は
冷夏になることを予想したのは、
すごかったです。
その後も、
大飢饉に苦しむ地域や多数の藩の復興に尽力し、
結果を出し、
幕府に雇われるまでになりました。
その後、
順調に活躍するだけでなく、
弟子たちも育て、
70歳で
その生涯を閉じることとなりました。
ちなみに、二宮金次郎をまつる二宮神社は、
・生まれた場所
・財政再建を果たした
・亡くなった場所
などにあるようです。
そんな二宮金次郎が残してくれた言葉で、
私が好きなのは、
・大事を成さんと欲する者は、まず小事を務むべし。
大事を成さんと欲して小事を怠り、
その成り難きを憂いて、成り易きを務めざる者は、小人の常なり。
それ小を積めば大となる。
現代でいえば、自分が大好きなイチローが、
同じようなニュアンスで語っています。
「小さいことを積み重ねるのが、
とんでもないところへ行くただひとつの道だと思っています。」
やはり小さなことの積み重ねを、
「継続的」にすることによって、
「工夫」や「新しいアイデア」が生まれ、
この一連の流れを、「当たり前として」
やり続けている人が、
結果的に成功するんだなと、
改めて考えさせられる言葉だと思いました。
あなたはどう感じましたか?
上手くいってるときも、
ピンチでどうしたらいいんだろうとブルーなときも、
歴史の先輩から学ぶ。
先輩たちの人生を参考にしながら、
明日から、
いやいや今から
自分たちも理想的で素敵な人生を送るために、
自分のペースの明るく・楽しく・元気よく
で、過ごしていきましょう。
次回は、
歴史上の人物!イケメンで大人気!新撰組!土方歳三の生涯と名言とは
という話を紹介します。