日露戦争後、殉死!乃木坂・乃木神社で有名【乃木希典の生涯と名言】

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乃木神社に建つ「辻占売り少年の銅像」の写真。日露戦争後、殉死!乃木坂・乃木神社で有名な乃木希典の優しが伝わる



葬儀の際に、

自宅から葬儀場までの沿道が推定●●万人とも言われる人々で

埋め尽くされたと言われるほど、

日本国民に愛された人物、

乃木 希典(のぎ まれすけ)の生涯と名言を紹介します。




1849年、長州藩の支藩である長府藩の藩士・乃木家の三男として、

現在の東京都港区六本木に生まれます。

兄2人は若くして、亡くなったため、

乃木家の跡取りとなります。




1858年、父が藩により長府(現在の山口県下関市)への異動を命じられたため、



翌年の1859年に、乃木 希典(のぎ まれすけ)も長府へ転居。



その後、戦争とともに生きることとなります。




1865年、小倉戦争に参加、



1876年、福岡県秋月(現在の福岡県朝倉市秋月)で起こった

秋月の乱の鎮圧に成功、



1877年、日本国内で最後の内戦である、

西南戦争に政府側として参加し、勝利に貢献します。

この戦争でのエピソードすごいです!

エピソードはのちほど。



1878年、に結婚。



1879年、長男が誕生し、

また大佐へと昇進を果たし、



1881年、次男が誕生、



1885年、最年少で少将に昇進します。

すごいスピード出世です。



1894年、日清戦争で大活躍し、

中将に昇進します。

大活躍の内容はのちほど。



1904年、日露戦争が勃発し、

乃木 希典(のぎ まれすけ)をより

有名にした2つの大きな出来事が

起こります。



その後、

1907年、学習院長に就任、



そして、

1912年、明治天皇の国葬が行われた日の夜、

乃木 希典(のぎ まれすけ)は妻とともに、

自殺し、

62歳でその生涯を閉じることとなりました。



そんな、

乃木 希典(のぎ まれすけ)の生涯を

分かりやすく解説させていただきました。

 

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日露戦争後、殉死!乃木坂・乃木神社で有名!乃木希典とはどんな人物

日露戦争後、殉死!乃木坂・乃木神社で有名な乃木希典が以前過ごした、下関のイメージ写真



乃木 希典(のぎ まれすけ)は、

1849年、長州藩の支藩である長府藩の藩士・乃木家の三男として、

現在の東京都港区六本木に生まれます。

乃木 希典(のぎ まれすけ)の、兄2人は若くして、

亡くなったため、乃木家の跡取りとなります。




1858年、父が藩により長府(現在の山口県下関市)への異動を命じられたため、



1859年に長府へ転居します。



1865年、第二次長州征討が開始されると、長府藩報国隊に属し、

小倉戦争に参加。



1868年、長府藩報国隊の漢学助教となるが、



同年12月、藩命により、

天皇や御所の護衛を目的とした軍隊に入り、

フランス式訓練法を学びます。



そして、1872年、

異例の大抜擢で、22歳で少佐となります。



1876年、福岡県秋月(現在の福岡県朝倉市秋月)で起こった

秋月の乱の鎮圧に成功、



1877年、日本国内で最後の内戦である、西南戦争に政府側として、参加します。

薩摩軍と激しい戦いを繰り広げ、最終的には、政府軍の勝利に終わります。

ここで、乃木 希典(のぎ まれすけ)の

すごいエピソードが。

戦闘中に、負傷し、病院に入院するも脱走し、

前線に復帰、翌日には敵を陥落させます。

その後も、部下の制止を振り切って連隊を指揮し、重傷を負い

またも病院に入院したにも関わらず、

前回同様、脱走して戦地に赴こうとしたため、

なんと、「脱走将校」という異名をもらうなど、

勝利への執念と実績が評価され、

中佐に昇進します。



そして、

1878年に結婚。

順調に出世を重ね、結婚し身を固めた、

乃木 希典(のぎ まれすけ)

その後、どんな人生を歩んだのかを

解説していきます。

 

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日清・日露戦争の評価は?乃木希典は妻と殉死【葬儀でのエピソード】

明治神宮の写真



1879年、長男が誕生し、また大佐へと昇進し、



1881年、次男が誕生、



1885年、最年少で少将に昇進します。

すごいスピード出世です。



1887年から1年間、政府の命令により、ドイツ帝国へ留学します。



1894年、日清戦争が勃発。

旅順要塞をわずか1日で陥落させたり、

司令官、桂太郎率いる、第1軍第3師団を包囲した清国軍を

撃破するなど大活躍し、

「将軍の右に出る者なし」といわれるほどの評価を受け、

中将に昇進します。



1896年、台湾総督に就任、



1904年、日露戦争が勃発。

旅順要塞の攻略を目的として、

乃木 希典(のぎ まれすけ)が日本を発つ直前に、

長男がロシア軍との戦いで戦死してしまいます。

長男の訃報を広島で聞くと、

東京にいる妻へ驚きの内容を持って、

電報で知らせます。

「名誉の戦死を喜べ」と。

立場的にはこうするしかなかったかもしれません。



そして、同年、続いて次男がも戦死します。

次男の戦死を知った乃木 希典(のぎ まれすけ)は、

「よく戦死してくれた。これで世間に申し訳が立つ」と

述べたと言われています。



長男と次男を相次いで亡くした、

乃木 希典(のぎ まれすけ)に国民は大変同情し、

戦後「一人息子と泣いてはすまぬ、二人なくした人もある」という歌が

流行するほどだったと言われています。



1905年、両軍ともに大きな犠牲を払う中、

抵抗が不可能になったと悟った、当時のロシア軍の旅順要塞司令官が

乃木 希典(のぎ まれすけ)に対し、

降伏書を送付し、旅順要塞はついに陥落しました。



その後、凱旋帰国します。



・「いかなる大敵が来ても3年は持ちこたえる」とロシア軍が豪語した

 旅順要塞を、非常に困難な状況の中、半年あまりで攻略したこと。

・二人の息子を日露戦争で亡くしたこと。



この2点から当時のマスコミが、

乃木 希典(のぎ まれすけ)の一挙手一投足を報じ、

人気を博しますが、

乃木 希典(のぎ まれすけ)本人は、

旅順攻囲戦において多数の将兵を戦死させた自責の念から、

凱旋後、各方面で催された歓迎会への招待もすべて断ります。



その後、

1907年、学習院長に就任します。



そして、

1912年、明治天皇の国葬が行われた日の夜、

乃木 希典(のぎ まれすけ)は妻とともに、

自殺し、

62歳でその生涯を閉じることとなりました。




現代では、

文学作品としては、

司馬遼太郎 『殉死』『坂の上の雲』、



NHK大河ドラマ、

中村シユン出演、

いだてん~東京オリンピック噺~



など、

数々の作品にも取り上げられています。




また、

日露戦争後、殉死し、

乃木坂・乃木神社で有名な

乃木希典をもっと詳しく知りたい方は、

本が多数出ておりますので、

ぜひ、読んで見てください。




殉死 (文春文庫)


名将 乃木希典と帝国陸軍の陥穽


乃木希典 (講談社学術文庫)


乃木希典と日露戦争の真実 司馬遼太郎の誤りを正す (PHP新書)


乃木希典 「廉潔・有情」に生きた最後の武人 (PHP文庫)





数多くの戦争に参加し、その戦争で息子2人を亡くした、

乃木 希典(のぎ まれすけ)。

乃木夫妻の葬儀の際は、

自宅から葬儀場までの沿道が

推定20万人とも言われる人々で埋め尽くされたと言われるほど、

日本国民に愛されました。




そんな彼の名言とは?

調べてみました。

ぜひ、元気をいっぱいもらってください。

 

乃木坂・乃木神社で有名【日本国民から愛された乃木希典の名言とは】

旧乃木邸の写真



・武士道は言葉ではない。




・恥を知れ。

 道に外れた事をして恥を知らないものは禽獣(きんじゅう)に劣る。




ん~、心に響きますね。

 

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まとめ

日露戦争後、殉死!乃木坂で有名な乃木希典を祀った乃木神社境内のお手水舎と参集殿の写真



乃木 希典(のぎ まれすけ)の生涯を

振り返ってみましょう。




1849年、長州藩の支藩である長府藩の藩士・乃木家の三男として、

現在の東京都港区六本木に生まれ、

兄2人が若くして、亡くなったため、

乃木家の跡取りとなりました。




1858年、父が藩により長府(現在の山口県下関市)への異動を命じられたため、




翌年の1859年に、乃木 希典(のぎ まれすけ)も長府へ転居。




その後、戦争とともに生きる人生でした。




1865年、小倉戦争に参加、



1876年、福岡県秋月(現在の福岡県朝倉市秋月)で起こった

秋月の乱の鎮圧に成功、



1877年、日本国内で最後の内戦である、

西南戦争に政府側として参加し、

勝利に貢献しましたね。

この戦争でのエピソード覚えてますか?



戦闘中に、負傷し、病院に入院するも脱走し、

前線に復帰、翌日には敵を陥落、

その後も、部下の制止を振り切って連隊を指揮し、重傷を負い、

またも病院に入院したにも関わらず、

前回同様、脱走して戦地に赴こうとしたため、

なんと、「脱走将校」という異名をもらいました。



勝利への執念と実績が評価され、中佐に昇進しました。



1878年、に結婚。



1879年、長男が誕生し、

また大佐へと昇進を果たしました。



1881年、次男が誕生、



1885年、最年少で少将に昇進、

すごいスピード出世でしたね。



1887年から1年間、政府の命令により、ドイツ帝国へ留学しました。



1894年、日清戦争が勃発。

旅順要塞をわずか1日で陥落させたり、

司令官、桂太郎率いる、第1軍第3師団を包囲した清国軍を

撃破するなど大活躍し、

「将軍の右に出る者なし」といわれるほどの評価を受け、

中将に昇進しました。



1896年、台湾総督に就任、



1904年、日露戦争が勃発。

長男、次男が戦死してしまいました。



1905年、旅順要塞はついに陥落、

そして、凱旋帰国します。



・「いかなる大敵が来ても3年は持ちこたえる」とロシア軍が豪語した

 旅順要塞を、非常に困難な状況の中、半年あまりで攻略したこと。



・二人の息子を日露戦争で亡くしたこと。



この2点から当時のマスコミが、

乃木 希典(のぎ まれすけ)の一挙手一投足を報じ、人気を博しますが、



乃木 希典(のぎ まれすけ)本人は、

旅順攻囲戦において多数の将兵を戦死させた自責の念から、凱旋後、

各方面で催された歓迎会への招待もすべて断りました。



その後、

1907年、学習院長に就任、



そして、

1912年、明治天皇の国葬が行われた日の夜、

乃木 希典(のぎ まれすけ)は妻とともに、

自殺し、

62歳でその生涯を閉じることとなりました。




そんな乃木 希典(のぎ まれすけ)が

残してくれた言葉で、

私が好きなのは、



・武士道は言葉ではない。



です。



数多くの戦争に参加し、

つねに命の危険と背中合わせの人の中、

スピード出世し続けます。

日露戦争では、結果的には勝利に貢献するも、

多くの部下、息子2人も失ってしまい、

明治天皇の国葬が行われた日の夜、

妻とともに自殺し、その生涯を閉じるという

生き方そのものに、

「武士道」を感じました。



また、最愛の息子2人も失ってしまい、

報じられている軍人という立場の発言ではなく、

親父としての本心は、

いったいどんな心境だったのでしょうか。。。



自分が同じ立場なら、同じような対応はできなかったと思いますし、

平常心でいられない状態で、

それを維持した精神力はすごいと思いました。



乃木 希典(のぎ まれすけ)の心境を想像すると、

自分はまだまだ!大丈夫!

目標を達成できる!今から、頑張るぞ!

と、元気をもらえます。

あなたは、どう感じましたか?






上手くいってるときも、

ピンチでどうしたらいいんだろうとブルーなときも、

歴史の先輩から学ぶ。

先輩たちの人生を参考にしながら、

明日から、

いやいや今から

自分たちも理想的で素敵な人生を送るために、

自分のペースの明るく・楽しく・元気よく

で、過ごしていきましょう。




次回は、


多数の映画で題材!総理大臣にも就任した鈴木貫太郎の生涯と名言とは


という話を紹介します。

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