日露戦争における勝利の立役者の一人!戦術家!秋山真之の生涯と名言

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秋山真之は司令長官の東郷平八郎の下で作戦担当参謀となり、第1艦隊旗艦「三笠」に乗艦したイメージ写真



東洋の小さな国であった日本が、あの大国ロシアを打ち負かし、

世界中を驚かせた

歴史的な戦争の結末を迎えることのできた、

立役者、秋山 真之(あきやま さねゆき)。




1868年、現在の愛媛県松山市に、

松山藩の下級武士・秋山家の5男として生まれます。




その後、

愛媛県で通っていた学校を中退し、東京に上京。

受験を経て、現在の東京大学教養学部に入学。




その後、進学を目指しますが、

ある理由から、海軍兵学校に入校し、そのまま海軍軍人となります。

正解はのちほど。

もし、

秋山 真之(あきやま さねゆき)が海軍軍人となっていなかったら、

日本の歴史が変わっていたかもしれません。




卒業後はいろいろな船に乗艦し、実地演習を重ね、

日清戦争時の活躍で注目された、

●●術を学び、

海軍大尉となるなど、

順調にキャリアを築きます。

正解はのちほど。

 

1897年にアメリカへ留学し、兵術の理論などを学ぶだけでなく、

「サンチャゴ・デ・キューバ海戦」を

秋山 真之(あきやま さねゆき) 自身の目で、リアルに見ることがでました。

詳細はのちほど、解説します。




その後、

順調に昇進、結婚をします。




そして、ついに!

秋山 真之(あきやま さねゆき) が、

日露戦争を勝利へと導いた作戦、

すごかったです!!

詳細はのちほど、解説します。

 

1905年、海軍大学校の教官に復帰、

晩年は、宗教の研究などに没頭し、

49歳でその生涯を閉じることとなりました。

現在の日本という国の基礎を築いてくれた1人、

秋山 真之(あきやま さねゆき) を

分かりやすく解説させていただきました。

 

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歴史上の人物で尊敬される秋山真之とは、いったいどんな人物だった?

松山城の写真



秋山 真之(あきやま さねゆき) は、

1868年、松山城下の中徒町(現在の愛媛県松山市)に、

松山藩の下級武士・秋山家の5男として生まれます。




その後、

1883年に将来の太政大臣(だいじょうだいじん)、

現在で表現すると、

司法・行政・立法を司る最高国家機関の長官という、

なんともすごい役職を目指すため、

愛媛県で通っていた学校を中退し、東京に上京。

受験を経て、現在の東京大学教養学部に入学。

やっぱり目指しているものが違うため、

頭もいいですね!!




その後、進学を目指します。

しかし、秋山家の経済状況が厳しく、

学費をお兄さんに払ってもらっていたため、進学を諦め、

1886年に海軍兵学校に入校します。




4年後の1890年、海軍兵学校を首席で卒業し、

そのまま海軍軍人となります。




卒業後はいろいろな船に乗艦し、実地演習を重ねるだけでなく、

日清戦争時の活躍で注目された、

水中で爆発する兵器、

水雷(すいらい)を

学ぶ学校が作られることになり、

その学生となって、

水雷術を学び、

海軍大尉となるなど、

順調にキャリアを築いていきます。




1897年にアメリカへ留学。

ここで、海軍大学校校長、軍事思想家である

アルフレッド・セイヤー・マハンから兵術の理論などについて

いろいろと教えてもらいます。




また、この時に、緊迫した海戦を

秋山 真之(あきやま さねゆき) 自身の目で、リアルに見ることができます。

1898年、スペイン本国から当時植民地だった

キューバのサンチャゴ・デ・クーバ港に入港してきたスペイン艦隊が、

アメリカ艦隊の封鎖を受け、脱出を図りましたが、

アメリカ艦隊に捕捉されて壊滅した、

「サンチャゴ・デ・キューバ海戦」です。




このときの経験が、

のちに、秋山 真之(あきやま さねゆき)も関わった、

日露戦争の際の「旅順港閉塞作戦」の礎となったとも伝えられています。




翌年の1899年にイギリス視察を行い、

1900年に帰国、

1901年、海軍少佐まで昇進します。




順調にキャリアを築いていった、秋山 真之(あきやま さねゆき) 。

その後のどんな展開となるのか?

解説していきます。

 

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日露戦争における勝利を決定付けた!秋山真之が実行した作戦とは!?

日露戦争に突入した際のロシアの宮殿広場をイメージした写真



1901年、海軍少佐に昇進した、

秋山 真之(あきやま さねゆき) 。

1902年、海軍大学校の教官となります。




1903年、結婚。

将来的には、4男2女をもうけます。




その後、

日露開戦を積極的に推進し、

1904年、海軍中佐に昇進。

同年、

朝鮮半島と満州の権益をめぐる争いが原因で、

日本とロシアとの関係が悪化、

そしてついに、

日露戦争に突入します。




この日露戦争で、

司令長官、東郷平八郎の下で、作戦担当参謀となり、

第1艦隊旗艦「三笠」に乗艦します。

作戦担当参謀となった、

秋山 真之(あきやま さねゆき) が、

日露戦争を勝利へと導いた作戦を簡単に説明します。




まずは、「旅順口攻撃」作戦です。

日本海軍は、

水雷(すいらい)夜襲攻撃などを実施します。 

 

覚えてますか?




日清戦争時の活躍で注目され、水中で爆発する兵器、

水雷(すいらい)を学ぶ新設学校で、水雷術を

秋山 真之(あきやま さねゆき)が学んでいましたね。




また、1897年にアメリカへ留学した際に、

緊迫した海戦を

秋山 真之(あきやま さねゆき) 自身の目で、

リアルに見ることができた、

あの海戦、

スペイン艦隊が、アメリカ艦隊の封鎖を受け脱出を図ったが、

アメリカ艦隊に捕捉されて壊滅した、

そう

「サンチャゴ・デ・キューバ海戦」

です。




この2つの経験が日露戦争で、生かされることとなるのです。




この「旅順口攻撃」では、

結果的には、

旅順港にこもるロシア艦隊に決定的な打撃を与えることはできませんでしたが、

この攻撃でロシア太平洋艦隊は旅順に封じ込まれ、

日本側は本土から大陸までの陸軍の揚陸や補給が簡単となりました。




そしてついに、

当時、世界最強と謳われた、

ロシアのバルチック艦隊に対して、迎撃作戦を立案します。




この作戦により、

ロシアのバルチック艦隊を撃破し、

日露戦争における勝利を決定付けました。




東洋の小さな国であった日本が、あの大国ロシアを打ち負かし、

世界中を驚かせた、

歴史的な戦争の結末を迎えたのです。




ちなみに、このバルチック艦隊との海戦は、 2日間におよびました。

結果がなんともすごいのです!!

バルチック艦隊でなんとか生き残った駆逐艦以上の艦艇はたった3隻のみ。

一方、日本側の損害はいうと、

ほぼ無傷でした。

結果、

この海戦は、世界海戦史上最も完全に近い勝敗と言われているだけでなく、

各国の軍事研究でも注目されているようです。




その後、

1905年、海軍大学校の教官に復帰、

晩年は、宗教の研究などに没頭し、

49歳でその生涯を閉じることとなりました。




また、秋山 真之(あきやま さねゆき)をもっと詳しく知りたい方は、

ぜひ、読んで見てください。


伝説の名参謀 秋山真之 (PHP文庫)


海軍基本戦術 (中公文庫)


知将秋山真之―ある先任参謀の生涯 (光人社NF文庫)


海軍応用戦術/海軍戦務 (中公文庫)


海軍基本戦術/海軍応用戦術/海軍戦務 (中公文庫)



そんな秋山 真之(あきやま さねゆき)が残してくれた言葉とは?

調べてみました。

ぜひ、元気をいっぱいもらってください。

 

司令長官東郷平八郎の参謀!日露戦争を大勝利に導いた秋山真之の名言

秋山真之が所属した当時の海軍の活躍をイメージさせる靖国神社にある大石灯籠レリーフ



・戦いには戦術が要る。

 戦術は道徳から開放されたものであり、卑怯もなにもない。




・海軍とはこう、艦隊とはこう、作戦とはこう、

 という固定概念がついている。

 恐ろしいのは固定概念そのものではなく、固定概念がついていることも知らず

 平気で司令室や艦長室のやわらかいイスに座り込んでいることだ。




・あらゆる戦術書を読み、万巻の戦史を読めば、

 諸原理、諸原則はおのずから引き出されてくる。

 みなが個々に自分の戦術をうちたてよ。

 戦術は借りものでは、いざという時に応用がきかない。




・流血のもっとも少ない作戦こそ、最良の作戦である。




・人間の頭に上下などない。

 要点をつかむという能力と、不要不急のものは切り捨てる

 という大胆さだけが問題だ。




・明晰な目的樹立、狂いのない実施方法、そこまでは頭脳が考える。

 しかし、それを水火の中で実施するのは、頭脳ではない。

 性格である。

 平素、そういう性格をつくらねばならない。




 ん~、心に響きますね。

 

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まとめ

東郷平八郎の下で参謀となり日露戦争で活躍した秋山真之の生涯と名言を知って心が晴れ晴れとするイメージ写真



秋山 真之(あきやま さねゆき)

現在の日本という国の基礎を築いてくれた人でした。




1868年、松山城下の中徒町(現在の愛媛県松山市)に、

松山藩の下級武士・秋山家の5男として生まれました。




その後、

愛媛県で通っていた学校を中退し、東京に上京。

受験を経て、現在の東京大学教養学部に入学。




その後、進学を目指しますが、

家庭の経済状況が厳しく、

1886年に海軍兵学校に入校。




そして、

4年後の1890年、海軍兵学校を首席で卒業し、

そのまま海軍軍人となりました。

もし、

秋山 真之(あきやま さねゆき)が海軍軍人となっていなかったら、

日本の歴史が変わっていたかもしれません。




卒業後はいろいろな船に乗艦し、実地演習を重ね、

日清戦争時の活躍で注目された、

水雷術を学び、

海軍大尉となるなど、

順調にキャリアを築いていきました。




その後、

1897年にアメリカへ留学し、兵術の理論などを学ぶだけでなく、

1898年、スペイン本国から当時植民地だった

キューバのサンチャゴ・デ・クーバ港に入港してきたスペイン艦隊が、

アメリカ艦隊の封鎖を受け、脱出を図ったが、

アメリカ艦隊に捕捉されて壊滅した、

「サンチャゴ・デ・キューバ海戦」を

秋山 真之(あきやま さねゆき) 自身の目で、

リアルに見ることができましたね。

 

1899年にイギリス視察を行い、

1900年に帰国、

1901年、海軍少佐に昇進

1902年、海軍大学校の教官

1903年、結婚。

将来的には、4男2女をもうけました。




その後、

日露開戦を積極的に推進し、

1904年、海軍中佐に昇進。

そしてついに、

日露戦争に突入しました。




ここで、

秋山 真之(あきやま さねゆき) が、

日露戦争を勝利へと導いた作戦、

すごかったですね!!




まずは、「旅順口攻撃」作戦です。

日本海軍による、

水雷(すいらい)夜襲攻撃などを実施し、

結果的には、

旅順港にこもるロシア艦隊に決定的な打撃を与えることはできませんでしたが、

この攻撃でロシア太平洋艦隊は旅順に封じ込まれ、

日本は本土から大陸までの陸軍の揚陸や補給が簡単になりました。




そしてついに、

当時、世界最強と謳われた、

ロシアのバルチック艦隊に対して、

迎撃作戦を立案、

そして撃破し、

日露戦争における勝利を決定付けました。




東洋の小さな国であった日本が、あの大国ロシアを打ち負かし、

世界中を驚かせた、

歴史的な戦争の結末を迎えたのです。




その後、

1905年、海軍大学校の教官に復帰、

晩年は、宗教の研究などに没頭し、

49歳でその生涯を閉じることとなりました。

そんな秋山 真之(あきやま さねゆき)が残してくれた言葉で、

私が好きなのは、


・海軍とはこう、艦隊とはこう、作戦とはこう、

 という固定概念がついている。

 恐ろしいのは固定概念そのものではなく、固定概念がついていることも知らず

 平気で司令室や艦長室のやわらかいイスに座り込んでいることだ。




「生き方」「物事の捉え方」を、考えさせられる味のある言葉だと思いました。

やはり今の自分の立場や生活に満足しずきて、

学ぶこと、素直さ、謙虚であることを忘れてしまうと、

時代から取り残されることになる。

時代は止まることなくつねに動いている状況で、

しかも、現代はスピードも早く、

「リーマン・ショック」や「コロナ」のような「不意打ちの出来事」が

つねに起こるので、

日々学ぶこと、素直な心、謙虚な姿勢で『生き続けること』が大事だよ!と、

伝えてくれているように感じました。

あなたはどう感じましたか?




上手くいってるときも、

ピンチでどうしたらいいんだろうとブルーなときも、

歴史の先輩から学ぶ。

先輩たちの人生を参考にしながら、

明日から、

いやいや今から

自分たちも理想的で素敵な人生を送るために、

自分のペースの明るく・楽しく・元気よく

で、過ごしていきましょう。




次回は、


日本海海戦でバルチック艦隊を撃破し勝利!東郷平八郎の生涯と名言!


という話を紹介します。

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