上杉謙信!前田慶次!伊達政宗!エピソードは?直江兼続の生涯と名言

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上杉景勝を生涯支え続け、前田慶次とも仲が良かった、直江兼続の銅像



上杉景勝を生涯支え続け、前田慶次とも仲が良かった、直江兼続。

上杉家9代藩主、上杉 鷹山(うえすぎ ようざん)の代に、

財政破綻寸前の窮地に追い込まれた米沢藩を救う指針となった、

直江兼続が実施した方法とは?



また、最後に直江兼続の負けず嫌いの性格を表した、

江戸城の廊下で伊達政宗とすれ違った際のエピソードなど、

魅力たっぷりの直江兼続を紹介します。




1560年、

樋口兼豊の長男として生まれ、




1564年、

父親の上杉 昌景(うえすぎ まさかげ)の死に伴い、

子どもであった、上杉景勝は上杉謙信の養子となり、

春日山城に入ることになり、

その際に、直江兼続は、上杉謙信の実の姉で、上杉景勝の母親であった、

仙桃院(せんとういん)から、

上杉景勝の身の回りの雑用を務める役に任命され、

上杉景勝とは幼い頃から一緒に生活したと伝えられています。




1578年、

上杉謙信の急死により、上杉家の後継者争いである、

「御館の乱(おたてのらん)」が勃発、

この乱において、直江兼続の活躍などもあり、

上杉景勝が勝利し、上杉謙信の後継者として、

上杉家の当主となります。




1581年、

22歳であった直江兼続は上杉景勝の命により、

直江景綱の娘で、殺害された直江信綱の妻であった

25歳の船の婿養子(船の立場としては再婚)として結婚し、

跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となります。

直江兼続と船の仲の良さが分かる出来事は、

のちほど解説します。




また、

直江兼続のシンボルマークとなっている、

「愛」の字を前面につけた飾りのある兜は、何からとられものなの?

解説も、のちほど。




その後も上杉景勝とともにし、



・本能寺の変



・豊臣政権時代



徳川家康が台頭し始めた際のエピソード



・石田三成が大阪で挙兵した際に訪れた、

 歴史を大きく変えることのできるチャンスにどうしたか?



・徳川政権時代の、直江兼続と伊達政宗のやりとり



など、

いろいろなエピソードが満載の直江兼続、

60歳でその生涯を閉じることとなった、

そんな魅力いっぱいの、直江兼続の生涯を

分かりやすく解説させていただきました。

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愛の文字が刻まれた!面白い兜をかぶっていた直江兼続とはどんな人物

前田慶次とも仲が良かった、直江兼続!使用していた愛の文字が刻まれた兜のイメージ写真



1560年、

樋口兼豊の長男として、

坂戸城下(現在の新潟県南魚沼市)に生まれたとする説と、

現在の新潟県南魚沼郡湯沢町で生まれたとする2つの説があります。




1564年、

父親の上杉 昌景(うえすぎ まさかげ)の死に伴い、

子どもであった、上杉景勝は上杉謙信の養子となり、

春日山城に入ることになります。



その際に、直江兼続は、

上杉謙信の実の姉で、上杉景勝の母親であった仙桃院(せんとういん)から、

上杉景勝の身の回りの雑用を務める役に任命され、

上杉景勝とは幼い頃から一緒に生活したと伝えられています。




1578年、

上杉謙信の急死により、上杉家の後継者争いである、

「御館の乱(おたてのらん)」が勃発します。



この乱において、

直江兼続の活躍などもあり、上杉景勝が勝利し、

上杉謙信の後継者として、上杉家の当主となります。




1581年、

上杉景勝の側近である直江信綱と山崎秀仙が、

毛利秀広に殺害される事件が起きます。



この事件後、22歳であった直江兼続は上杉景勝の命により、

直江景綱の娘で、今回殺害された直江信綱の妻であった

25歳の船の婿養子(船の立場としては再婚)として結婚し、

跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となります。



直江兼続は、実はその後、

側室を1人も迎えず、正室である妻の船だけを愛し続けました。




1582年、

織田信長による武田領への侵攻で、甲斐の武田氏は滅亡します。

圧倒的な兵力数と武田氏を滅亡させた勢いそのままに、

織田信長軍が上杉軍の領地に攻め入り、上杉軍はピンチを迎えます。




ちなみに、

直江兼続のシンボルマークとなっている、

「愛」の字を前面につけた飾りのある兜は、

上杉謙信が愛宕神社において、

武田信玄および北条氏康の打倒を戦勝祈願した文書が見つかっていて、

この愛宕の「愛」からとする説が有力視されています。



話を元に戻します。



ここで思わぬ出来事が起こります。

そうです、「本能寺の変」です。



この思わぬ出来事に、

武田の領地にいた織田軍はすべて撤退、

武田の領地は無主状態となり領地を巡る争い、

「天正壬午の乱」が起こります。



この乱に乗じ、直江兼続の貢献もあり、

上杉謙信と武田信玄が何度も戦った因縁の地である、

川中島も含み、

上杉景勝は領土の拡大に成功します。




その後、直江兼続は、

どんな人生を歩んだのかを解説していきます。

 

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上杉景勝を助け発展も!豊臣秀吉による命により越後から会津に国替え

会津城の写真



その後世の中は、豊臣政権時代となります。



1589年、

「佐渡征伐」に上杉景勝に従軍し、勝利。

勝利後は、佐渡の支配を命じられます。




1590年、

「小田原征伐」においても、上杉景勝に従軍。

先発隊として八王子城を攻略するなどし、関東諸城の攻略に成功します。



この時、

安定した豊臣政権の中で、

直江兼続は戦乱で疲弊した、越後を立て直そうと動きます。



まず、農民に新しい田畑の開墾を奨励します。

それにより、新田開発が進み、現在に至る米所としての地位を確立するのです。



次に力を入れたのが、産業の育成と商業の発展です。

衣服の材料として貴重なものであった、

青苧(あおそ)を増産する仕組みを作り上げ、

青苧(あおそ)で織り上げた布を京都でたくさん売り、莫大な利益を上げます。



直江兼続のこの2つの施策により、

上杉謙信の時代にも劣らない繁栄をもたらしたと伝えられています。




その後1598年、

豊臣秀吉の命令で、上杉景勝は越後から会津に国替えを命じられます。

これにより上杉家の石高は大幅に増えましたが、

慣れ親しんだ越後からの移住は困難を極めました。




その後、直江兼続は、どんな人生を歩んだのかを

引き続き、解説していきます。

 

歴史上の人物!直江兼続と前田慶次、徳川家康、伊達政宗との逸話は?

米沢藩主上杉家廟所の写真



1598年、

豊臣秀吉が死去すると、

5大老の筆頭である徳川家康が台頭し、

その地位を盤石にしようと、権力を振るうようになり、

上杉景勝も標的となります。



会津で、神指城(こうざしじょう)の築城や街道整備をしていること、

また、石高の増加にともない、多数の牢人を雇用したことが、

謀反のための準備であると決めつけられてしまいます。



そして、徳川家康から、

謀反を起こそうとする考えがないのであれば、

誓いの言葉を書いた紙を差し出し、

京都に来て、弁明せよ。という手紙が届きます。



その手紙の返事を見て、

直江兼続は徳川家康へ返事を書きます。

その手紙の内容を見て、徳川家康は激怒、

上杉軍を討伐するための会津遠征を決意させるきっかけと

なったと言われています。



徳川家康が激怒したこの手紙は後世になって、

「直江状」と呼ばれることとなります。




1600年、

徳川家康は大軍を率いて、京都の伏見城を出発し、江戸城に入城、

会津征伐の機会をうかがいます。



実はこの時、

あの前田慶次が上杉家の客将(かくしょう)として、戦いに参加しています。

前田慶次が、客将(かくしょう)として戦いに参加した理由として

考えられるのは、

上杉景勝の人柄や思想に共感していただけでなく、

実は直江兼続は、若い頃から漢文学に親しみ、

自ら漢詩も詠んだほか、連歌もよくし、

当代一流の文化人の連歌会に名を連ねていて、

以前から、前田慶次と交流があり、

仲が良かったことが理由とされています。



直江兼続は、徳川家康率いる徳川軍を迎撃する戦略を練っていましたが、

ここでまたまた大きな出来事が起こります。



石田三成が大阪で挙兵したのです。

徳川家康は石田三成の挙兵をしたことを、

下野国小山(現在の栃木県小山市)で知ります。

総大将を毛利輝元とした、

なんと、10万の規模となります。



実は、徳川家康が大軍を率いて会津征伐に向かったのは、

自分の留守中に石田三成が挙兵することを促すための行動でもあったのですが、

石田三成がこれほどの大軍を動員できることに驚き、

徳川家康の計算が大幅に狂うことにあります。



このままだと、

上杉軍と石田三成軍との挟み撃ちにあってしまうからです。



そのため、

徳川家康は、会津征伐を断念し、軍を反転させ、

西に向かうとことになります。



ここで、直江兼続が徳川家康を追撃するように、進言しますが、

上杉景勝はこれを拒否します。

ここで追撃していたら、歴史が大きく変わったかもしれません。



その矢先、

徳川家康による会津征伐の撤退に際し、

上杉家と庄内地方を巡って激しく争い敵対している、

最上家当主、最上義光が

上杉家の領地、米沢と庄内を結ぶ街道の分断を測ろうと画策します。



それもそのはず、

最上家から見ると自領が上杉領に囲まれているという、

好ましくない領地体系となっていたからです。




同年9月、

直江兼続は、上杉景勝を米沢に残し、

最上軍の重要拠点である長谷堂城を攻めた、

「長谷堂城の戦い」を起こします。



その頃、美濃国(現在の岐阜県)において「関ヶ原の合戦」が行われ、

西軍が敗れたことが直江兼続にも伝わると、

上杉軍は長谷堂城攻略を中止して撤退を開始します。



勢いに乗った最上軍と最上義光救援のために伊達政宗が援軍として

派遣した留守政景軍が追撃してきて激戦となりますが、

水原親憲や前田慶次ら、上杉勢の諸将の奮戦もあって、

米沢への撤退に成功します。




実は、この撤退戦の見事さは語り草となり、

直江兼続は敵である最上義光や徳川家康からも称賛されるだけでなく、

旧日本陸軍参謀本部の『日本戦史』でも取り上げられているのです。




1601年、

上杉景勝とともに京都に向かい、徳川家康に謝罪します。

徳川家康から罪を赦された上杉景勝は、

150万石から、米沢のみ30万石へ大幅に収入を減らされますが、

上杉家の存続を許されます。




その後、直江兼続は、

新たな土地で産業を盛んにする施策から手をつけ始め、

さらに、治水工事や新田開発、また鉱山開発などを推し進めます。



そして30年後の1638年には、なんと、51万石まで収入が増え、

米沢藩の藩政の基礎を築くことになります。



直江兼続が築いた米沢藩政の基礎は、その後も受け継がれ、発展を遂げ、

ずっと後の話になりますが、

上杉家9代藩主、上杉 鷹山(うえすぎ ようざん)の代には、

財政破綻寸前の窮地に追い込まれた米沢藩を救う指針となりました。




1614年、

「大坂の陣」において、

徳川軍として参戦し、「鴫野の戦い」などで武功を挙げます。




そして1620年、

江戸鱗屋敷(えどうろこやしき)、

現在の警視庁のある場所で病死、

60歳でその生涯を閉じることとなりました。




最後に、

直江兼続の負けず嫌いの性格を表したエピソードを紹介します。



徳川政権時代のあるとき、

直江兼続は江戸城の廊下で伊達政宗とすれ違いますが、

会釈すらせず、素知らぬ顔で素通りします。



伊達政宗がこれをとがめると、直江兼続が一言。

「伊達政宗公とは戦場では幾度もお目にかかっておりましたが、

いつも負けて逃げる、後ろ姿しか拝見したことが無かったため、

一向に気がつきませんでした」と。。。



すごく知的な切り返しトークですね。




現代では、

●小説

 ・1999年、集英社

 童門冬二作品、 『直江兼続—北の王国』



・2009年、講談社

 近衛龍春作品、 『直江山城守兼続』



●TVドラマ

・2009年、 NHK大河ドラマ

 妻夫木聡出演、『天地人』



・2016年、 NHK大河ドラマ

 村上新悟出演、『真田丸』



●ゲーム

・カプコン 、『戦国BASARAシリーズ』



・コーエー、 『戦国無双』



など、

数々の作品にも取り上げられています。



また、上杉景勝を生涯支え続け、

前田慶次とも仲が良かった、

直江兼続をもっと詳しく知りたい方は、

本だけでなく、マンガもありますので、

ぜひ、ご覧ください。


戦国人物伝 直江兼続 (コミック版日本の歴史)


全一冊 小説 直江兼続 (集英社文庫)


実伝 直江兼続 (角川文庫)


直江兼続と関ヶ原


直江兼続   (新人物往来社2008年刊行)



そんな彼の名言とは?

ピックアップしてみました。

ぜひ、元気をいっぱいもらってください。

 

愛の兜!大河ドラマでも取り上げられた直江兼続!一途な男の名言とは

上杉景勝を生涯支え続け、前田慶次とも仲が良かった、直江兼続の名言を「米沢城」を散策しながら想像しているイメージ写真



・天の時、地の利、人の和。



ん~、心に響きますね。

 

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まとめ

上杉景勝を生涯支え続け、前田慶次とも仲が良かった、直江兼続の生涯と名言を知って心が晴れ晴れとするイメージ写真



直江兼続の生涯を振り返ってみましょう。




1560年、

樋口兼豊の長男として、

坂戸城下(現在の新潟県南魚沼市)に生まれたとする説と、

現在の新潟県南魚沼郡湯沢町で生まれたとする2つの説がありました。




1564年、

父親の上杉 昌景(うえすぎ まさかげ)の死に伴い、

子どもであった、上杉景勝は上杉謙信の養子となり、

春日山城に入ることになりました。



その際に、直江兼続は、

上杉謙信の実の姉で、上杉景勝の母親であった仙桃院(せんとういん)から、

上杉景勝の身の回りの雑用を務める役に任命され、

上杉景勝とは幼い頃から一緒に生活したと伝えられていましたね。




1578年、

上杉謙信の急死により、上杉家の後継者争いである、

「御館の乱(おたてのらん)」が勃発、

この乱において、直江兼続の活躍などもあり、

上杉景勝が勝利し、

上杉謙信の後継者として、上杉家の当主となりました。




1581年、

22歳であった直江兼続は上杉景勝の命により、

直江景綱の娘で、殺害された直江信綱の妻であった

25歳の船の婿養子(船の立場としては再婚)として結婚し、

跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となりました。



直江兼続と船の仲の良さ、覚えてますか?



側室が多数いるのが当たり前の時代に、

直江兼続は、側室を1人も迎えず、正室である妻の船だけを愛し続けました。



また、

直江兼続のシンボルマークとなっている、

「愛」の字を前面につけた飾りのある兜は、

上杉謙信が愛宕神社において、

武田信玄および北条氏康の打倒を戦勝祈願した文書が見つかっていて、

この愛宕の「愛」からとする説が有力視されていました。




その後、「本能寺の変」が起きたタイミングで

直江兼続の貢献もあり、

上杉謙信と武田信玄が何度も戦った因縁の地である、

川中島も含み、

上杉景勝は領土の拡大に成功しました。




その後世の中は、豊臣政権時代となり、

この時、安定した豊臣政権の中で、

直江兼続は戦乱で疲弊した、越後を立て直そうと動き、

田畑の開墾、産業の育成と商業の発展という

この2つの施策により、

上杉謙信の時代にも劣らない繁栄をもたらしたと伝えられていました。




その後1598年、

豊臣秀吉の命令で、上杉景勝は越後から会津に国替えを命じられます。

これにより上杉家の石高は大幅に増えましたが、

慣れ親しんだ越後からの移住は困難を極めました。




1598年、

豊臣秀吉が死去すると、

5大老の筆頭である徳川家康が台頭し、

その地位を盤石にしようと、権力を振るうようになり、

上杉景勝も標的となりました。



覚えてますか?



後世になって、

徳川家康を激怒させてた「直江状」と呼ばれる手紙、

すごかったですね。



その手紙の内容を見て、

上杉軍を討伐するための会津遠征を決意させるきっかけとなったと

言われているぐらいなので、

飛ぶ鳥を落とす勢いであった徳川家康のプライドを

相当傷つけるだけの内容だったと推測できます。




1600年、

徳川家康は大軍を率いて、京都の伏見城を出発し、江戸城に入城、

会津征伐の機会をうかがいました。



直江兼続との交流もあり、

あの前田慶次が上杉家の客将(かくしょう)として、

戦いに参加していたのは、驚きでした。




その後、

石田三成が大阪で挙兵、



そのため、

徳川家康は、会津征伐を断念し、軍を反転させ、

西に向かうとことになり、



ここで、直江兼続が

徳川家康を追撃するように、進言しますが、

上杉景勝はこれを拒否しました。



ここで追撃していたら、歴史が大きく変わったかもしれません。




その後、

上杉家と庄内地方を巡って激しく争い敵対している、

最上義光との戦となり、その戦いの最中に、

美濃国(現在の岐阜県)において「関ヶ原の合戦」が行われ、

西軍が敗れたことが直江兼続にも伝わると、

上杉軍は長谷堂城攻略を中止して撤退を開始しました。



覚えてますか?



実は、この撤退戦の見事さは語り草となり、

直江兼続は敵である最上義光や徳川家康からも称賛されるだけでなく、

旧日本陸軍参謀本部の『日本戦史』でも取り上げられているぐらいなので、

完璧というぐらいの内容だったことが推測できますね。




1601年、

上杉景勝とともに京都に向かい、徳川家康に謝罪、

徳川家康から罪を赦された上杉景勝は、

150万石から、米沢のみ30万石へ大幅に収入を減らされますが、

上杉家の存続を許されました。




その後、直江兼続は、

新たな土地で産業を盛んにする施策から手をつけ始め、

さらに、治水工事や新田開発、また鉱山開発などを推し進め、




30年後の1638年には、

なんと、51万石まで収入が増え、

米沢藩の藩政の基礎を築くことになりました。



直江兼続が築いた米沢藩政の基礎は、その後も受け継がれ、発展を遂げ、

ずっと後の話になりますが、

上杉家9代藩主、上杉 鷹山(うえすぎ ようざん)の代には、

財政破綻寸前の窮地に追い込まれた米沢藩を救う指針となりましたね。




1614年、

「大坂の陣に」おいて、

徳川軍として参戦し、「鴫野の戦い」などで武功を挙げ、




そして1620年、

江戸鱗屋敷(えどうろこやしき)、

現在の警視庁のある場所で病死、

60歳でその生涯を閉じることとなりました。




最後に直江兼続の負けず嫌いの性格を表した、

江戸城の廊下で伊達政宗とすれ違った際のエピソード、

カッコ良かったですね。




そんな直江兼続の言葉、

・天の時、地の利、人の和。



現代風に考えても、

すごく役に立つ言葉だと思いました。

何か事を成すには、

まずはとにかく、「タイミング」が大事で、

それが早すぎても、遅すぎでもいけない。

それに加え、

どんな場所なのか?

どんな事なのか?

どんな内容なのか?

と、

成功に至るまでの道筋の

「詳細な過程」と「本質」を明確にしながら行動し続け、

ただ、

人は1人でできることには限界があるので、

みんなで1つの目標に向かって走り続けるためには、

「一体感」と「人を敬う気持ち」、

そして何より、

『どんなことをして人の役に立ちたいのか?』を

明確にし、伝え続け、歩み続けることが大切であると

教えてくれていると思いました。

あなたはどう感じましたか?






上手くいってるときも、

ピンチでどうしたらいいんだろうとブルーなときも、

歴史の先輩から学ぶ。

先輩たちの人生を参考にしながら、

明日から、

いやいや今から

自分たちも理想的で素敵な人生を送るために、

自分のペースの明るく・楽しく・元気よく

で、過ごしていきましょう。




次回は、


直江兼続!豊臣秀吉!徳川家康!との逸話とは?上杉景勝の生涯と名言


という話を紹介します。

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