漫画「花の慶次」で有名に!かぶきもので人気の前田慶次の生涯と名言

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漫画の花の慶次で有名になったかぶきもので人気の前田慶次のイメージイラスト



戦国時代「豪快なかぶき者」と伝えられているミステリアスな人物で、

近年、人気急上昇中の前田慶次。

彼の生涯と名言を紹介します。




誕生は、

1532年~1541年の間、




名前は、

前田 利益(まえだ とします)をはじめ、

さまざまな名前が伝えられているだけでなく、




実は父親も生地も判明していないという、

生まれた時から、

ミステリアスたっぷりなところが、

人気の秘密の一つなのかもしれません。




養父に育てられ、

1582年、

「本能寺の変」が起こり、

前田慶次は、滝川軍の先発隊として戦い、




また、1584年、

「小牧・長久手の戦い」では、

佐々成政を退却させ、




1590年、

豊臣秀吉の「小田原征伐」が始まると

前田利家とともに出征したりしました。




ところが、理由は定かではありませんが、

1590年以降から、

前田慶次、

突然、思いもよらぬ行動をとります。

正解はのちほど。




その後、京都での浪人生活では、

前田慶次が非常に知的な人物であったことが推測される出来事や

その後、仕えることになる、

上杉景勝との出会いのエピソードも紹介します。




1598年~1600年、

「関ヶ原の戦い」が勃発し、

この期間、上杉景勝に雇われます。

上杉景勝との初顔合わせの際の逸話が、

これまた、

すごく知的で、カッコ良いですよ!!




その後、

「関ヶ原の戦い」などを経て、

人生の最期、

亡くなった場所や時期も2つの説があるという、

本当に最後までミスリアスな人生の、

前田慶次。




そんな、

前田慶次の生涯を

分かりやすく解説させていただきました。

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かぶきもので有名!歴史上の人物!前田慶次とはいったいどんな人物?

俳句の聖地である金福寺



誕生は、

1532年~1541年の間、



名前は、

前田 利益(まえだ とします)をはじめ、

さまざまな名前が伝えられていますが、

原哲夫の漫画『花の慶次 -雲のかなたに-』が有名なので、

前田慶次で今回は解説させていただきますね。




実は父親も生地も判明しておらず、

尾張国(現在の愛知県名古屋市中川区)

荒子城主、前田利久が養父として育てられます。




前田慶次の養父の前田利久は、

体が弱かったことから、

織田信長の命により、

前田家は前田慶次にとっての義理の叔父にあたる

前田利家が受け継ぐことになりました。




その後、1582年、

「本能寺の変」が起こり、

前田慶次は、滝川軍の先発隊として戦ったと

伝えられるだけでなく、




1584年、

「小牧・長久手の戦い」では、

佐々成政に攻められた末森城の救援に向かに、

佐々成政を退却させます。




1590年、

豊臣秀吉の「小田原征伐」が始まると

前田利家とともに出征したり、

その後も同行したりします。




ところが、1590年以降から、

前田慶次、

妻子一同を置き去りにしたまま、

突然、前田家を飛び出し姿をくらまします。



理由としては、

前田利家との不仲説などが伝えられていますが、

それを裏付ける確固たる資料もありません。




その後、京都で浪人生活を送りながら、

多数の連歌会(れんがかい)に参加するだけでなく、

前田慶次自身が連歌会(れんがかい)を

主催したという資料が残っているようです。



ちなみに、連歌会(れんがかい)とは、

5・7・5の俳句と、

5・7・5・7・7の短歌を、

複数の人で順番を決めて、交互に詠んでいき、

1つの句にしていくことのようです。



元は、奈良時代に作られ、

鎌倉時代には、

50・100・120句の3つのバーションとなり、



最終的には、

100句が基本型となったようです。




謎の多いミステリアスな人物、前田慶次、

その後、仕えることになる、

上杉景勝との出会いのエピソードを紹介します。


豊臣秀吉が諸国の大名を招待した、盛大な宴を開催します。

この宴で、前田慶次が猿のお面を付け、

面白おかしく踊りながら歩き回りました。


宴会の余興ということで、

前田慶次は踊りながら、

なんと!順々に多数の大名の膝の上に乗っていったのです。


ところが、

前田慶次が膝の上に座れなかった武将が一人だけいたのです。

それが、上杉景勝だったのです。



前田慶次はその後、

上杉景勝だけは威厳があり、乗ってはいけない雰囲気があった』と、

語っていたそうです。



その後、前田慶次がどのような人生を歩んだのかを

解説していきます。

 

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花の慶次で有名!前田慶次が浪人集団のトップに!人気の秘密は生き方

米沢城



1598年~1600年、

あの「関ヶ原の戦い」が勃発。



この期間、上杉景勝に雇われます。




その際に、上杉景勝は、

もともと数代にわたり仕えていた譜代の家臣と、

名前の知られている浪人たち、

つまり、

新しく雇った浪人集団の名前を

「組外衆(くみそとしゅう)」と名付け、

2つの組織を形成します。


その新しく雇った浪人集団「組外衆(くみそとしゅう)」の

トップに前田慶次は任命されるのです。




上杉景勝の部下に突然なった理由としては、

上杉景勝の人柄や思想に共感していただけでなく、

前田慶次とともに、文学の才能があった

上杉家の家臣、直江 兼続(なおえ かねつぐ)との

交流があったことが考えられます。



ここで、前田慶次の逸話が伝えられています。

上杉景勝に仕えることになり、初めて顔を合わす際、

泥の付いた3本の大根を持参し、

「この大根のように見かけはむさ苦しいが、

 噛みば噛むほど滋味の出る拙者でござる」と言ったと、

伝えられています。

すごく知的で、カッコ良いですね!!




その後、

「長谷堂城の戦い」に出陣し、

手柄を立てたとされていますが、



上杉景勝は、

石田三成率いる西軍に参加したいたため、

「関ヶ原の戦い」後は、領地などを減らされ、

かつ、現在でいうと山形県米沢市(よねざわし)に

異動させられると、

前田慶次もこれに従って米沢藩に仕えます。




米沢藩時代は、仲の良い、直江 兼続(なおえ かねつぐ)と

和歌や連歌を詠むなどの悠々自適の生活だったと

伝えられています。




その後、病気になり、

治療のため現在の奈良県に移り住み、

そこで、数々の悪ふざけをして、

その後は仏門に入り、

1605年に生涯を終えたという説。



もう一つの説は、1612年、

上杉家の領地である会津で生涯を終えたという説。




亡くなった場所や時期も2つの説があるという、

本当に最期までミスリアスな人生たっぷりの、

そんな前田慶次。




現代では、

2010年、

片岡愛之助が演じた

『花の武将 前田慶次』の舞台や、




原哲夫による漫画、

『花の慶次 -雲のかなたに-』、




最近ゲームでは、

モンスト、パズドラ、




アプリでは、

にゃんこ大戦争




など、

数々の作品にも取り上げられています。




また、前田慶次をもっと詳しく知りたい方は、

本だけでなく、DVDもありますので、

ぜひ、ご覧ください。




花の慶次 ―雲のかなたに― 1巻


前田慶次―武家文人の謎と生涯 (Truth In History)


『一夢庵風流記 前田慶次』『My Dream TAKARAZUKA』 [DVD]




そんな彼の名言とは?

原哲夫による漫画、

『花の慶次 -雲のかなたに-』から、

ピックアップしてみました。

ぜひ、元気をいっぱいもらってください。

 

漫画「花の慶次」で有名に!かぶきもので生きた!前田慶次の名言とは

漫画「花の慶次」で有名に!かぶきもので人気の前田慶次の名言を京都にある嵐山の花灯路がライトアップされた場所で想像しているイメージ写真



・囚われた心とは自由な心にはかなわんな。




・死んだと思うてみろ。

 死人は自由だぞ。

 何のしがらみもありゃしない。

 すべてを捨て雲のように生きてみるがいいさ。




・武士に口舌はいらぬ。

 あるのはただ行動のみ。




ん~、心に響きますね。

 

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まとめ 

漫画「花の慶次」で有名に!かぶきもので人気の前田慶次の生涯と名言を知って心が晴れ晴れとするイメージ写真



前田慶次の生涯を振り返ってみましょう。




誕生は、

1532年~1541年の間、

名前は、

前田 利益(まえだ とします)をはじめ、

さまざまな名前が伝えられているだけでなく、




実は父親も生地も判明していないという、

生まれた時から、

ミステリアスたっぷりなところが、

人気の秘密の一つなのかもしれません。




養父に育てられ、

1582年、

「本能寺の変」が起こり、

前田慶次は、滝川軍の先発隊として戦い、




また、1584年、

「小牧・長久手の戦い」では、

佐々成政を退却させ、




1590年、

豊臣秀吉の「小田原征伐」が始まると

前田利家とともに出征しました。




ところが、理由は定かではありませんが、

1590年以降から、

前田慶次、

妻子一同を置き去りにしたまま、

突然、前田家を飛び出し姿をくらましましたね。




その後、京都で浪人生活を送りながら、

多数の連歌会(れんがかい)に参加するだけでなく、

前田慶次自身が連歌会(れんがかい)を

主催したという資料が残っているなど、

非常に知的な人物であったことが推測できました。


その後、仕えることになる、

上杉景勝との出会いのエピソード覚えてますか?


豊臣秀吉が諸国の大名を招待した、

盛大な宴で、



前田慶次が猿のお面を付け、

面白おかしく踊りながら歩き回り、

なんと!順々に多数の大名の膝の上に乗っていく中で、

上杉景勝の膝の上にだけは座れず、



その後、前田慶次は、

上杉景勝だけは威厳があり、乗ってはいけない雰囲気があった』と、

語っていましたね。

あの前田慶次をも、唸らせるだけのオーラーを

上杉景勝は放っていたのが推測できますね。


1598年~1600年、

「関ヶ原の戦い」が勃発し、

この期間、上杉景勝に雇われ、

新しく雇った浪人集団「組外衆(くみそとしゅう)」の

トップに任命されました。




上杉景勝との初顔合わせの際の逸話、

覚えてますか?

泥の付いた3本の大根を持参し、



「この大根のように見かけはむさ苦しいが、

 噛みば噛むほど滋味の出る拙者でござる」と言ったと

伝えられています。

表現がすごく知的で、カッコ良かったですね!!




その後、

「長谷堂城の戦い」に出陣し、

手柄を立てたとされていますが、



上杉景勝は、

石田三成率いる西軍に参加したいたため、

「関ヶ原の戦い」後は、領地などを減らされ、

かつ、現在でいうと山形県米沢市(よねざわし)に

異動させられると、

前田慶次もこれに従って米沢藩に仕えましたね。




米沢藩時代は、仲の良い、直江 兼続(なおえ かねつぐ)と

和歌や連歌を詠むなどの悠々自適の生活だったと

伝えられていることから、

この生活は、前田慶次にとっては、

本当に幸せな時間だったと思います。




人生の最期、

亡くなった場所や時期も2つの説があるという、

本当に最後までミスリアスな人生の、

前田慶次。




そんな前田慶次の言葉で、

原哲夫による漫画、『花の慶次 -雲のかなたに-』で、

私が好きなのは、

・死んだと思うてみろ。

 死人は自由だぞ。

 何のしがらみもありゃしない。

 すべてを捨て雲のように生きてみるがいいさ。



人生は1度しかない!

いろいろな制約などがあるのは分かる。

ただ、

「朝、目が覚めて、夜、寝るとき、

 今日も楽しく、人の役に立てた、充実した1日だった!と、

 感じられるような、生き方をしているか?

 本当はすごくやりたいことがあって、

 心に秘めていて、

 それを我慢している理由が、

 それをしたら、他人からどう見られるかな?と考えてるなら、

 そんなことは、気にするな。関係ない

 自分が心からやりたいことをやりなよ。

 人生は1回なんだから!」


と言われているような、

読めば読むほど、

すごく深みのあり、

考えさせられる非常に言葉だと思いました。

皆さんはどの名言が好きで、どう感じましたか?






上手くいってるときも、






ピンチでどうしたらいいんだろうとブルーなときも、

歴史の先輩から学ぶ。

先輩たちの人生を参考にしながら、

明日から、

いやいや今から

自分たちも理想的で素敵な人生を送るために、

自分のペースの明るく・楽しく・元気よく

で、過ごしていきましょう。




次回は、


台湾を愛した日本人!台湾の教科書にも紹介される八田與一の生涯とは


という話を紹介します。

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