伊賀!影の軍団!実は松尾芭蕉!?忍者で有名!服部半蔵の生涯と名言

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

伊賀忍者で有名な服部半蔵をイメージした写真



非常に不利な状況からの、あの有名な「●●越え」で、

徳川家康をピンチから救い、

「日本の忍者ランキング」で必ず上位に上がる、

服部半蔵の生涯と名言を紹介します。




服部半蔵は、

父親の服部半三保長(はっとりはんぞうやすなが)から、

自分の人生の経験を踏まえて、

息子の半蔵には、

忍者ではなく、足軽になるように促されます。




1557年、

服部半蔵が伊賀の忍者を率いて、

功績をあげたといわれていますが、

いつ頃から徳川家康(当時は、松平元康)に

仕えたかはまだ解明されていません。




1560年、

この頃、服部半蔵の父親、

服部半三保長(はっとりはんぞうやすなが)は、

忍者になることを諦めなかった服部半蔵に、

伊賀流忍術の秘伝書、「忍秘伝(にんぴでん)」を授け、

この世を去ったといわれています。




ついに、父親から忍者になることを認められた、

服部半蔵。

その後の人生は、

戦いの連続でした。

詳細はのちほど、解説します。




1579年、

徳川家を揺るがした、

大事件が勃発します。

解説はのちほど。




1582年、

非常に不利な状況からの

あの有名な「●●越え」は、

のちほど、詳しく解説します。




その後1569年、

55歳でその生涯を閉じることとになりました。




そんな、

服部半蔵の生涯を

分かりやすく解説させていただきました。

<スポンサーリンク>

 

影の軍団!実は松尾芭蕉?伊賀!忍者で有名!服部半蔵とはどんな人物

服部半蔵が支え続けた、徳川家康の生地として知られる岡崎城の天守の写真



服部半蔵は、

松平広忠の家臣、服部半三保長(はっとりはんぞうやすなが)の

第5子として生まれます。




1467年、

今でいうと、室町幕府の幕臣たちの派閥争いである、

「応仁の乱」が起こります。

この乱により、室町幕府が弱体化し、

戦国時代に突入していくこととなります。



そんな時代に、服部半蔵の父親である、

服部半三保長(はっとりはんぞうやすなが)は、

忍びの国として有名であった、

伊賀国(現在の三重県伊賀市)に生まれます。



伊賀国は農業に適さない地域であったため、

伊賀の人々は、幼い頃から忍びの術を鍛錬し、

その技術を生かして、戦国大名に仕えて、

生計を立てていました。



服部半蔵の父親である、

服部半三保長(はっとりはんぞうやすなが)は、

室町幕府第12代将軍、足利義晴に仕えるも、

給料が安かったこと、出世できないことも重なり、

忍者の道を捨て、

三河国(現在の愛知県豊川市)、

松平家、のちの徳川家の足軽として仕え始めます。



このような経験から、

父親の保長(やすなが)は、

息子の半蔵には、

忍者ではなく、足軽になるように促されます。




1565年、

駿河(現在の静岡県静岡市)で、今川家の人質となっていた、

徳川家康(当時は、松平元信)が、

父親の松平広忠の法要のため、三河国岡崎城に一時帰国します。




1557年、

服部半蔵が伊賀の忍者を率いて、

功績をあげたといわれていますが、

いつ頃から徳川家康(当時は、松平元康)に

仕えたかはまだ解明されていません。




1560年、

今川義元が「桶狭間の戦い」で、織田信長に討たれます。

これを受けて、今川氏の人質という立場のまま武将となっていた、

徳川家康(当時は、松平元康)は、

本拠地の三河国岡崎城に帰城し、

今川氏からついに独立を果たします。



この頃、

服部半蔵の父親、

服部半三保長(はっとりはんぞうやすなが)は、

忍者になることを諦めなかった服部半蔵に、

伊賀流忍術の秘伝書、「忍秘伝(にんぴでん)」を授け、

この世を去ったといわれています。




ついに、父親から忍者になることを認められた、

服部半蔵。

その後、どんな人生を歩んだのかを

解説していきます。

 

<スポンサーリンク>

伊賀!影の軍団!実は松尾芭蕉!?忍者で有名!服部半蔵の功績と逸話

徳川家康を守りながら、すごく険しい道が多数ある「伊賀越え」をイメージさせる写真



1562年、

徳川家康(当時は、松平元康)は、

尾張国の織田信長と同盟を結びます。



同年、

徳川家康(当時は、松平元康)は、

今川氏の家臣、鵜殿長照の居城を攻め、

鵜殿長照の子どもである鵜殿氏長を捕らえ、

今川義元の後継者、

今川 氏真(いまがわ うじざね)のもとにいた、

徳川家康(当時は、松平元康)の妻、築山殿(つきやまどの)と

長男、徳川信康との人質交換の際に利用します。



この鵜殿長照の居城を攻め、

鵜殿長照の子どもである鵜殿氏長を捕らえた際、

服部半蔵は足軽になっていたといわれているので、

その活躍が目に浮かびます。




その後、1568年、

今川氏との「掛川城攻防戦」、



1570年、

織田・徳川連合軍、

浅井・朝倉の連合軍の戦いである、

「姉川の戦い」、



1572年、

武田信玄により、

徳川家康が、討ち死に寸前まで大敗した、

「三方ヶ原の戦い」など、



数々の戦で、戦功を挙げて、

徳川家康より槍(やり)を賜るだけでなく、

伊賀衆150人のリーダーに任命されたと、

伝えられています。



もしかしたら、

「三方ヶ原の戦い」で討ち死に寸前の

徳川家康を助けたのは、

服部半蔵だったのかもしれません。




1579年、

徳川家を揺るがす大事件が勃発します。

元々、織田信長の娘で、

徳川家康の長男、徳川信康と結婚した徳姫が、

旦那の徳川信康と、

徳川家康の妻、築山殿(つきやまどの)が

武田と内通しているという密書を

父親の織田信長に送ります。

直ちに、織田信長は真意を確かめるように、

命令します。



結果、

徳川家康の妻、築山殿(つきやまどの)は、

家康の家臣により暗殺され、

家康は長男、信康を自害させます。



この時、服部半蔵は家康に命じられて、

幼い頃からずっと知っていて、

仲の良かった、

信康の切腹に立ち会うことになります。

その時の服部半蔵の心境は、

どうだったのでしょうか?




1582年、

あの有名な「伊賀越え」です。

この出来事の発端は、

明智光秀の謀反「本能寺の変」により、

織田信長は自害します。



同日、徳川家康は、

堺という場所で遊覧中にその悲報を受けます。

当然、織田信長の次に命を狙われるリストに入っていた、

徳川家康

仲間が30人ぐらいしかいないタイミングで、

しかも、敵のテリトリーの中にいます。

なんとか、三河に帰らなければなりません。



そこで、服部半蔵は、

すごく険しい道が多数ある、

伊賀の山中を越え、伊勢湾を船で渡る最短ルート、

「伊賀越え」を提案します。



「伊賀越え」を成功させるためには、

2つの問題がありました。



1つ目は、

明智軍がすでに家康を探し始めていただけでなく、

道中に、山賊たちに支配されていた地域があったこと。



2つ目は、

この前年に、「天正伊賀の乱」が起こり、

織田信長が自分に従わなかった伊賀国を攻めて、

農民、女性や子どもも容赦なく殺害しただけでなく、

民家や寺社までも焼き尽くしました。

当然、伊賀の人たちは、

織田信長を恨んでいたと思われますが、

その織田信長と同盟を結んでいた、

徳川家康も同じように恨まれているリスクがあったのです。



この「伊賀越え」で服部半蔵は大活躍します。

まずは、「天正伊賀の乱」の際に、

織田信長に味方した、

甲賀の多羅尾 光俊(たらお みつとし)に協力を取り付け、



また、

生まれ故郷である伊賀の忍者を味方にすることに成功、



そして、

この伊賀の忍者とともに、徳川家康を守り、

ついに、

このピンチを脱し、

徳川家康を三河に帰すことができました。



この活躍により、

服部半蔵は、8千石の領地を与えれます。




1590年、

徳川家康が関東に移り、江戸城に入った際に、

服部半蔵は、

武士30人と伊賀同心200人を預けられ、

最後の切り札となる、

江戸城の裏門(西門)の警備を任されます。




その後、1569年、

55歳でその生涯を閉じることとになりました。




さらに、

服部半蔵が松尾芭蕉ではないか?という

都市伝説が伝えられています。




●理由1 松尾芭蕉の一日の移動距離がすごい!

「おくのほそ道」は、松尾芭蕉が旅をして書いた有名な著書ですが、

当時の平均寿命が50歳と言われていた時代に、

46歳の松尾芭蕉が歩いた距離を計算すると。。。

なんと1日に48キロも歩いたことになるのです。


現代で言うと、

男性の平均寿命が約82歳なので、

78歳の男性が、

毎日48kmも歩いたことになるのです。





●理由2 関所をすべてフリーパスで通過している!

江戸時代の関所といえば、

通行手形などがなければ通れない時代。

そんな時代の関所を、

「俳句を読み歩く旅を続けているので通してください」

という、理由だけで、

関所を通過できているのがあまりにも不自然な状況。




状況から推測すると、

松尾芭蕉は、

徳川幕府での役割として、

各地を歩き回り、

諸大名の状況などの情報収集や

謀反などの予兆はないかなどの治安を維持するための

重要人物だった可能性が考えられます。





つまり、その役目を当時の

服部半蔵が任されていたと推測できるため、

松尾芭蕉が服部半蔵だったのではないか?という、

都市伝説につながっているのです。







現代では、

・テレビ

1980年 フジテレビ系列 千葉真一出演

「服部半蔵 影の軍団」




・映画

2003年、2005年 オリジナルビデオ 千葉真一出演

「新 影の軍団シリーズ」




・マンガ

横山光輝

「伊賀の影丸」、「兵馬地獄旅」





・白土三平

「サスケ」





・藤子不二雄A

「忍者ハットリくん」





・ゲーム

 戦国無双、モンスト、パズドラ、戦国IXA

など、

数々の作品にも取り上げられています。




また、服部半蔵をもっと詳しく知りたい方は、

本だけでなく、マンガ、DVDもありますので、

ぜひ、ご覧ください。




戦国人物伝 服部半蔵 (コミック版日本の歴史)


服部半蔵 家康を支えた諜報参謀 (PHP文庫)


影の軍団 服部半蔵 [DVD]





そんな彼の名言とは?

調べてみました。

ぜひ、元気をいっぱいもらってください。




 

漫画!忍者ハットリくん!影の軍団!伊賀忍者で有名!服部半蔵の名言

三重県「忍者修行の里」にある赤目四十八滝を見ながら、服部半蔵の名言を回想しているイメージ写真



・我が身、既に鉄なり

 我が心、既に空なり

 天魔覆滅。



・三代相恩の主に刃は向けられない。



ん~、心に響きますね。


 

<スポンサーリンク>

まとめ

伊賀忍者で有名な服部半蔵の生涯と名言を知って、心が晴れ晴れとしたイメージ写真



服部半蔵の生涯を

振り返ってみましょう。



服部半蔵は、

松平広忠の家臣、服部半三保長(はっとりはんぞうやすなが)の

第5子として生まれます。



父親の服部半三保長(はっとりはんぞうやすなが)から、

自分の人生の経験を踏まえて、

息子の半蔵には、

忍者ではなく、足軽になるように促されました。




1557年、

服部半蔵が伊賀の忍者を率いて、

功績をあげたといわれていますが、

いつ頃から徳川家康(当時は、松平元康)に

仕えたかはまだ解明されていませんでしたね。




1560年、

この頃、

服部半蔵の父親、

服部半三保長(はっとりはんぞうやすなが)は、

忍者になることを諦めなかった服部半蔵に、

伊賀流忍術の秘伝書、「忍秘伝(にんぴでん)」を授け、

この世を去ったといわれていましたね。



ついに、父親から忍者になることを認められた、

服部半蔵。



その後の人生は、戦いの連続でした。




1568年、

今川氏との「掛川城攻防戦」、



1570年、

織田・徳川連合軍、

浅井・朝倉の連合軍の戦いである、

「姉川の戦い」、



1572年、

武田信玄により、

徳川家康が、討ち死に寸前まで大敗した、

「三方ヶ原の戦い」など、



数々の戦で、戦功を挙げて、

徳川家康より槍(やり)を賜るだけでなく、

伊賀衆150人のリーダーに任命されたと、

伝えられていました。



もしかしたら、

「三方ヶ原の戦い」で討ち死に寸前の

徳川家康を助けたのは、

服部半蔵だったのかもしれません。




1579年、

徳川家を揺るがした、

あの大事件、覚えてますか?



織田信長の娘で、

徳川家康の長男、徳川信康と結婚した徳姫が、

旦那の徳川信康と、

徳川家康の妻、築山殿(つきやまどの)が

武田と内通しているという密書を

父親の織田信長に送った事件です。



結果、

徳川家康の妻、築山殿(つきやまどの)は、

家康の家臣により暗殺され、

家康は長男、信康を自害させました。




そして1582年、

非常に不利な状況からの

あの有名な「伊賀越え」で、

まずは、「天正伊賀の乱」の際に、

織田信長に味方した、

甲賀の多羅尾 光俊(たらお みつとし)に協力を取り付け、



また、

生まれ故郷である伊賀の忍者を味方にすることに成功し、



そして、

この伊賀の忍者とともに、徳川家康を守った、

服部半蔵の活躍はすごかったですね。



もしあの時、

徳川家康が亡くなっていたら、

大きく歴史が変わりましたね。




1590年、

徳川家康が関東に移り、江戸城に入った際に、

服部半蔵は、

武士30人と伊賀同心200人を預けられ、

最後の切り札となる、

江戸城の裏門(西門)の警備を任され、




その後、1569年、

55歳でその生涯を閉じることとになりました。




父親に反対されても忍者を諦めず、行動し続けた、

服部半蔵。

まずは、こうなりたいという想いを持ち、

また、その想いを持ち続け、

そして行動し続けることが大事だと再認識しました。

また、

あの「伊賀越え」はすごく人生の参考になりました。

圧倒的に不利な状況下であっても、

どうやったら目的を達成できるかを

冷静に把握、分析、行動することにより、

必ず方法は見つかると教えてもらえたように感じます。

あなたはどう感じましたか?






上手くいってるときも、

ピンチでどうしたらいいんだろうとブルーなときも、

歴史の先輩から学ぶ。

先輩たちの人生を参考にしながら、

明日から、

いやいや今から

自分たちも理想的で素敵な人生を送るために、

自分のペースの明るく・楽しく・元気よく

で、過ごしていきましょう。




次回は、


黒田官兵衛と関ヶ原の戦いに参戦?日本の剣士!宮本武蔵の生涯と名言


という話を紹介します。

<スポンサーリンク>

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*