「巌流島の合戦」で有名な宮本武蔵
29歳まで、
約60回の勝負を行い、
なんと無敗と伝えられています。
その強さの理由とは?
また、
宮本武蔵の代名詞とも言われる「二刀流」
その「二刀流」で
「木刀」を使うことになった理由とは?
さらに、
宮本武蔵といえば、
やはり佐々木小次郎との対決である、
「巌流島(がんりゅうじま)の決闘」
なんと、
この決闘の行われた時期について
いろいろな説があるだけでなく、
しかも、
9つものシナリオがあり、
今回2つだけ紹介します。
人気の高い、服部半蔵の生涯と名言を
分かりやすく解説させていただきました。
目次
大河ドラマ!佐々木小次郎!二刀流!宮本武蔵はどんな人物で何した人
宮本武蔵は、
1584年、
出生地は現在の
兵庫県姫路市、兵庫県高砂市米田町、岡山県美作市など
諸説あるだけでなく、
父親も、戦国時代の剣豪、新免 無二(しんめん むに)と
されていますが、こちらもいろいろな説があり、
解明されていないのです。
13歳で初めて有馬喜兵衛という人物と決闘し勝利、
16歳で但馬国(現在の兵庫県豊岡市)の
秋山という強力な兵法者に勝利、
なんと!
それから29歳まで、約60回の勝負を行い、
すべてに勝利したと伝えられています。
宮本武蔵はなぜなんでそんなに強いのか?
その理由として考えられるのは、
ズバリ、
並外れた体の大きさだったと思われます。
当時の平均身長が150cm代という時代に、
宮本武蔵の身長は、約182cmと
桁違いの大きさだったことが分かります。
話を元に戻します。
1600年、
「関ヶ原の戦い」では、
父親と思われる新免無二(しんめん むに)が
「関ヶ原の戦い」以前に、
東軍の黒田家に仕官していたことが判明していることから、
父親と共に豊前国(現在の福岡県東部、大分県北部)を
当時管轄していた黒田官兵衛に従い、
東軍として九州で戦った可能性が高いと推測されます。
その後、
「大坂の陣」では、
水野勝成の客将として徳川方に参陣して、
活躍したことが数々の資料に記載されています。
その後は、
明石(現在の兵庫県明石市)において、
都市計画だけでなく、
城や寺院の庭園造りにも携わります。
そして1638年、
天草四郎率いる「島原の乱」に幕府側として参戦した際、
一揆軍の投石によって負傷したと伝えられています。
1640年、
熊本藩主の細川忠利に、
今でいうとお客様という立場で招かれて、
熊本城から東側にある千葉城に屋敷が与えられ、
鷹狩りが許されるなど、
非常に破格の待遇で迎えられます。
この頃に製作した水墨画や木刀などが、
現代に伝えられています。
そして1645年、
62歳でその生涯を閉じることとになりました。
そんな宮本武蔵といえば、
やはり佐々木小次郎との対決である、
「巌流島(がんりゅうじま)の決闘」、
この戦いを調べてみました。
解説していきます。
小倉碑文に佐々木小次郎との決闘の真実が!二刀流!宮本武蔵のその後
実は、
「巌流島(がんりゅうじま)の決闘」は、
試合の行われた時期は諸説あり、
定かではないのです。
しかも、
9つものシナリオがあるのです。
ここでは2つのシナリオを紹介します。
巌流島(がんりゅうじま)の決闘の1つ目のシナリオ
もっとも古い、
「小倉碑文(こくらひぶん)」によると、
佐々木小次郎(岩流)と名乗る兵術の達人が、
武蔵に真剣勝負を申し込みます。
現在の山口県下関市・関門海峡に浮かぶ無人島で、
長門と豊前の国境の海上に
船島(正式名称は「巌流島(がんりゅうじま)」)
という島があり、
ここで両者が対決することとなりました。
佐々木小次郎(岩流)は、
約90cmの真剣を使い戦いましたが、
武蔵が電光より早い木刀の一撃で、
佐々木小次郎(岩流)を殺します。
この決闘以降、相手の死を敬うためであろうか?
船島を岩流嶋と称するようになったという説。
巌流島(がんりゅうじま)の決闘の2つ目のシナリオ
古い記録である、「沼田家記」によると、
宮本武蔵が豊前国に来て、
二刀兵法の師になった頃、
すでに佐々木小次郎という者が
岩流兵法の師になっていました。
ある日、
お互いの弟子同士が争いとなり、
宮本武蔵と佐々木小次郎が
試合をすることになりました。
この試合の際に、
お互い1つだけルールを決めます。
それは、
双方弟子を連れてこないということ。
試合の結果、
佐々木小次郎が敗れます。
佐々木小次郎の弟子は、
約束を守り一人も来ていませんでしたが、
なんと、
武蔵の弟子は島に来ていて隠れていて、
勝負に敗れ気絶し、気を取り戻した
佐々木小次郎をなんと、
宮本武蔵の弟子達が皆で打ち殺したという説。
イメージ通りと、驚きの結果ですね。
最後に
明確な根拠はありませんが、
歴史の醍醐味であるロマンがあるため、
宮本武蔵が「二刀流」となった2つの理由と「木刀」を使うことになった理由
ご紹介したいと思います。
・尋常ではない力持ちであったため、
片手で刀剣を使いこなすことができたことから、
これが元になり、「二刀流」の技術を生み出したという説。
・祭りに参加した際、
2本のバチを使って太鼓を叩く姿をみて、
「二刀流」を生み出したという説。
・剣を扱う技術が極限のレベルに達した頃、
修行のため真剣の代わりに竹刀を振ると、
一度振っただけで竹刀が壊れてしまったため、
その後、木刀を使い始めたという説。
現代では、
●ゲーム
・fgo
・モンスト
だけでなく、
●漫画
・石ノ森章太郎作品、『宮本武蔵』
・原作:吉川英治、漫画:井上雄彦作品、『バガボンド』
・本宮ひろ志作品、『武蔵』
●映画
・1971年、東宝、監督:内田吐夢、武蔵役:萬屋錦之介
『真剣勝負』
・1981年、武蔵役:緒形拳
1996年、武蔵役:宮内洋
2003年、武蔵役:長塚京三
『魔界転生』
など、
数々の作品にも取り上げられています。
また、
宮本武蔵をもっと詳しく知りたい方は、
本だけでなく、DVDもありますので、
ぜひ、ご覧ください。
宮本武蔵 戦国人物伝 (コミック版日本の歴史)
宮本武蔵全一冊合本版 (吉川英治歴史時代文庫) [電子書籍版]
新装版 真説宮本武蔵 (講談社文庫)
英文版 五輪書 – The Book of Five Rings
宮本武蔵 (<DVD>)
最強の二刀流入門 宮本武蔵必勝の極意!尾張円明流を学ぶ (<DVD>)
さらに、宮本武蔵を現代でも、
身近に感じられる場所があるようなので、
興味のある方は、行かれてみるといかがでしょうか。
・遺品や宮本武蔵が書いた絵画を所蔵する
熊本県熊本市西区島崎4-5-28
そんな宮本武蔵の名言とは?
調べてみました。
ぜひ、元気をいっぱいもらってください。
大河ドラマ!佐々木小次郎!二刀流!「五輪書」著者!宮本武蔵の名言
・体の大きい者も小さい者も、心をまっすぐにして、
自分自身の条件にとらわれないようにすることが大切である。
・我、神仏を尊びて、神仏を頼らず。
・初めの少しのゆがみが、あとには大きくゆがむものである。
・武士といえば、常に死ができている者と自惚れているようだが、
そんなものは出家、女、百姓とて同様だ。
武士が他と異なるのは、兵法の心得があるという一点においてだけだ。
・何れの道にも、別れを悲しまず。
・心、常に、道を離れず。
・役に立たぬ事を、せざる事。
・身を浅く思ひ、世を深く思ふ。
・一理に達すれば万法に通ず。
・我、事において後悔せず。
・人のまねをせずに、その身に応じ、
武器は自分の使いやすいものでなければならぬ。
・空を道とし、道を空とみる。
・千日の稽古をもって鍛となし、万日の稽古をもって錬となす。
・構えあって構えなし。
ん~、心に響きますね。
まとめ
宮本武蔵の生涯を
振り返ってみましょう。
1584年、
出生地は現在の兵庫県姫路市など諸説あるだけでなく、
父親も、戦国時代の剣豪、
新免 無二(しんめん むに)とされていますが、
こちらもいろいろな説があり、
解明されていませんでした。
13歳で初めて有馬喜兵衛という人物と決闘し勝利、
16歳で但馬国(現在の兵庫県豊岡市)の
秋山という強力な兵法者に勝利、
なんと、それから29歳まで、
約60回の勝負を行い、
無敗と伝えられていました。
なんでそんなに強いのか?の理由、
覚えてますか?
身長が約182cm、
当時の平均身長が150cm代ということから、
宮本武蔵がすごく大きかったことが、
強さの理由の1つと推測できました。
その後、
「大坂の陣」では、
水野勝成の客将として徳川方に参陣して、
活躍したことが数々の資料に記載されていました。
1640年、
熊本藩主の細川忠利に、
今でいうとお客様という立場で招かれて、
熊本城から東側にある千葉城に屋敷が与えられ、
鷹狩りが許されるなど、
非常に破格の待遇で迎えられました。
この頃に製作した水墨画や木刀などが、
現代に伝えられています。
そんな宮本武蔵といえば、
やはり佐々木小次郎との対決である、
「巌流島(がんりゅうじま)の決闘」。
この決闘の行われた時期について諸説あり、
定かではないのです。
しかも、9つものシナリオがあり、
2つだけ紹介しました。
イメージ通りと、驚きの結果でした。
また、
最後に明確な根拠はありませんが、
歴史の醍醐味であるロマンがあるため、
「二刀流」となった2つの理由と、
「木刀」を使うことになった理由を
紹介させていただきました。
いろいろな説がある、宮本武蔵。
ついに1645年、
62歳でその生涯を閉じることとになりました。
そんな宮本武蔵の言葉で、
自分が好きなのは、
・構えあって構えなし。
仕事でも、プライベートでも、
挨拶することや人の役に立つことなど、
基本となることに加えて、
自分が得意なこと、学んだこと、
経験したことベースになって
「個性」が生まれますが、
「今まではこうだったから」という
固定概念に固執しすぎてはダメで、
時代や自分の状況に合わせて、
「つねに変化させることができるんだという
想い・準備・行動」が
大事であると、
教えてくれているような言葉だと感じました。
皆さんはどう感じましたか?
上手くいってるときも、
ピンチでどうしたらいいんだろうとブルーなときも、
歴史の先輩から学ぶ。
先輩たちの人生を参考にしながら、
明日から、
いやいや今から
自分たちも理想的で素敵な人生を送るために、
自分のペースの明るく・楽しく・元気よく
で、過ごしていきましょう。
次回は、
日本の歴史上最大級一揆!島原の乱で有名な天草四郎の生涯と名言とは
という話を紹介します。
コメント