様々な理由から、
合計6人もの主人に仕えることとなった、
島左近。
6人目の主人、
石田三成に雇われる際の内容に驚きです。
そして、1600年、
「関ヶ原の戦い」の本戦が幕を切って落とされ、
当初は石田三成率いる、
西軍が有利に戦を進めます。
「関ヶ原の戦い」では、
島左近も自ら陣頭に立ち大活躍、
島左近の戦いぶりは、
徳川方でも有名となり、
『誠に身の毛も立ちて汗の出るなり』と
恐れられたことが、
伝えられています。
しかし、この戦いにより、
61歳でその生涯を閉じることとなります。
そんな、島左近には、
なんと最後の死亡説と生存説で、
それぞれ3つずつあるという、
本当にミステリアスな人物となります。
そんな、ミステリアスな人物、
島左近の生涯と名言を紹介します。
目次
石田三成との関係?戦国時代最強?【島左近とはどんな人物?逸話?】
1540年、
出どころは現在も明らかでないですが、
大和国(現在の奈良県)生まれ
その後、
大和国にも勢力を拡大していた、
畠山 高政(はたけやま たかまさ)に仕えます。
その畠山 高政(はたけやま たかまさ)が、
三好 長慶(みよし ながよし)と戦った、
「教興寺の戦い」に参加するも、
畠山 高政(はたけやま たかまさ)は敗北、
島左近も敗走します。
この戦いの際に、
筒井 順昭(つつい じゅんしょう)の
指揮下で戦ったことがキッカケとなり、
畠山氏の没落後、
筒井 順昭(つつい じゅんしょう)に
仕えることになります。
その筒井 順昭(つつい じゅんしょう)が、
1549年、突然、
病を苦にして家臣数人を連れて突如、
比叡山に隠居してしまいます。
筒井 順昭(つつい じゅんしょう)が
突然隠居したため、
息子の筒井 順慶(つつい じゅんけい)が
わずか2歳で
家督を継ぐこととなります。
詳細を記載されたものがありませんが、
何らかの形で
筒井 順慶(つつい じゅんけい)を支え続け、
その功績によって
筒井家の重臣に加わることになります。
その後、
島左近の主人である、
筒井 順慶(つつい じゅんけい)は、
「信貴山城の戦い」においてライバルであった
松永久秀を倒し、
あの「本能寺の変」の混乱においても、
筒井家の存亡の危機を乗り越え、
筒井家による大和国の統一を成し遂げます。
その後の島左近は、
内政面で筒井 順慶(つつい じゅんけい)を
支えていたと思われます。
筒井 順慶(つつい じゅんけい)から
椿井城主に任命されるも、
すぐに、
主君である筒井 順慶(つつい じゅんけい)が
病に倒れてしまい、
跡を継いだ筒井 順慶(つつい じゅんけい)の
甥・筒井 定次(つつい さだつぐ)と意見が合わず、
1588年、
筒井家を去ることとなります。
筒井家を去った後は、
豊臣 秀長(とよとみ ひでなが)に仕え、
秀長の死後は、
豊臣 秀保(とよとみ ひでやす)に
仕えたと言われています。
いろいろな事情により、
主人を6人も変えざる終えなかった、
島左近。
その後、どんな人生を歩んだのかを
解説していきます。
島左近!最強伝説!石田三成との関係は?関ヶ原の戦い後も実は生存?
その後の島左近、
石田三成から何回も仲間になって欲しいと
要請を受けるも、
断り続けます。
しかし、
石田三成の熱意のある説得により、
仲間になることを受け入れます。
現代風でいうと、
この時のスカウト料が、
半端ない金額となります。
当時の石田三成の年間の売り上げが4万石としたら、
なんと、その半分の2万石をスカウト料として支払い、
重役クラスでスカウトするのです。
そして、1600年、
「関ヶ原の戦い」の前日には、
伊達政宗の裏切りなどに備えて、
江戸からなかなか動けないと思われた徳川家康が、
美濃国赤坂(現在の岐阜県大垣市赤坂町字勝山)に
到着したという情報に動揺する、
石田三成率いる西軍の兵たちを鼓舞するために、
島左近は、兵500を率いて東軍の
中村 一栄(なかむら かずしげ)、
有馬 豊氏(ありま とようじ)の
両隊に戦いを挑んだ、
「杭瀬川の戦い」に勝利します。
この勢いをさらに加速させるため、
島津 義弘(しまづ よしひろ)、
小西 行長(こにし ゆきなが)とともに、
夜襲を提案しましたが、
この案は石田三成に却下されてしまいます。
そしていよいよ、
「関ヶ原の戦い」の本戦が幕を切って落とされます。
当初は石田三成率いる西軍が、
有利に戦を進めます。
島左近も自ら陣頭に立ち大活躍しますが
この戦いにより、
61歳でその生涯を閉じることとなりました。
島左近の『最期』について3つの説
が伝えられています。
島左近の『最期』について1つ目の説
黒田長政軍の菅 正利(かん まさとし)率いる鉄砲隊に
銃撃され負傷後、死亡した説
島左近の『最期』について2つ目の説
正午過ぎ、
小早川秀秋の東軍への寝返りを皮切りに
西軍は総崩れとなり、
島左近が出陣し、
正面の黒田長政軍及び田中吉政軍に突撃するも、
敵の銃撃により討ち死にした説
島左近の『最期』について3つ目の説
戸川 達安(とがわ みちやす)という武将により、
討ち取られた説
実は、
島左近は「関ヶ原の戦い」で死亡しておらず『生存していた』という3つの説
も伝えられています。
島左近は「関ヶ原の戦い」で死亡しておらず『生存していた』1つ目の説
「関ヶ原の戦い」を脱して落ち延び、
京都に潜伏し、
1632年に死亡したという説
島左近は「関ヶ原の戦い」で死亡しておらず『生存していた』2つ目の説
実は島左近の遺体は、
「関ヶ原の戦い」で戦死したとされる
大谷吉継とともに見つかっていないのです。
しかも、「関ヶ原の戦い」後、
京都で島左近を目撃したと称する者が
相次いだとされているようです。
京都市の立本寺には島左近のお墓があり、
「関ヶ原の戦い」後、
逃れてこの寺の僧として、
32年後に死去したとされている説
島左近は「関ヶ原の戦い」で死亡しておらず『生存していた』3つ目の説
静岡県浜松市天竜区に
島家の後裔が在住しており、
23代目の島茂雄氏によれば、
島左近は島金八と名を変えて百姓に変装し、
春になると毎年大阪で、自
分の部下を集めて桜の下で酒宴を催したという説
島左近、
「関ヶ原の戦い」が最期だったのか、果たして!?
本当にミステリアスな人物というだけでなく、
「関ヶ原の戦い」での島左近の戦いぶりは、
徳川方でも有名となり、
『誠に身の毛も立ちて汗の出るなり』と恐れさせたことが、
戦国最強を言われる所以となっています。
現代では、
・漫画
1994年、集英社、原哲夫『影武者徳川家康(1 – 6)』
(原作:隆慶一郎著『影武者徳川家康』)
・映画
2017年 平岳大出演
「関ヶ原」
・テレビ
1971年 NHK大河ドラマ、北村和夫出演
「春の坂道」
1981年 TBSドラマ、三船敏郎出演
「関ヶ原」
1983年 NHK大河ドラマ 川津祐介出演
「徳川家康」
1985年 NHK新大型時代劇、湯浅実出演
「真田太平記」
1988年 TBS大型時代劇スペシャル、室田日出男出演
「徳川家康」
1993年 テレビ東京12時間超ワイドドラマ 高橋悦史出演
「徳川武芸帳 柳生三代の剣」
1998年 テレビ朝日 寺田農出演
「影武者徳川家康」
2000年 NHK大河ドラマ 夏八木勲出演
「葵 徳川三代」
2006年 日本テレビ 松方弘樹出演
「戦国自衛隊・関ヶ原の戦い」
2009年 NHK大河ドラマ 若林豪出演
「天地人」
2011年 NHK大河ドラマ 中村育二出演
江〜姫たちの戦国〜
2014年 テレビ東京新春ワイド時代劇、高橋英樹出演
「影武者徳川家康」
2016年 NHK大河ドラマ 玉置孝匡出演
「真田丸」
・ゲーム
信長の野望、戦国無双、戦国basara、
など、
数々の作品にも取り上げられています。
また、島左近をもっと詳しく知りたい方に!
本だけでなく、ゲームもありますので、
紹介させていただきました。
軍師島左近
決戦!関ケ原 名軍師・島左近の知略 (PHP文庫)
嶋左近 (人物文庫)
島左近 石田三成を支えた義将 (PHP文庫)
島左近 義を貫いた闘将の生涯 (PHP文庫)
某には策があり申す 島左近の野望 (時代小説文庫)
戦国時代最強と噂され、
実は、「関ヶ原の戦い」後、生きていたのではないか?
と噂される、
ミステリアスな人物、島左近
そんな彼の名言とは?
調べてみました。
ぜひ、元気をいっぱいもらってください。
徳川も驚愕!関ヶ原の戦いで大活躍後、実は生存?最強!島左近の名言
・ただ城下の繁栄に驕って、
下々の憂苦を思わず、
武具にのみ力を入れて城郭を構築しても、
徳と礼儀がなければ甚だ危うい。
ん~、心に響きますね。
まとめ
島左近の生涯を
振り返ってみましょう。
1540年、
出どころは現在も明らかでないですが、
大和国(現在の奈良県)生まれ
その後、
大和国にも勢力を拡大していた、
畠山 高政(はたけやま たかまさ)に
仕えますが、
その畠山 高政(はたけやま たかまさ)が、
三好 長慶(みよし ながよし)と戦った、
「教興寺の戦い」に参加するも、
畠山 高政(はたけやま たかまさ)は敗北、
島左近も敗走しました。
その後、
筒井 順昭(つつい じゅんしょう)に仕えますが、
突然隠居することとなり、
わずか2歳で家督を継ぐこととなった、
筒井 順慶(つつい じゅんけい)に仕え、
詳細を記載されたものがありませんが、
何らかの形で
筒井 順慶(つつい じゅんけい)を支え続け、
その功績によって
筒井家の重臣に加わリました。
その主君である筒井 順慶(つつい じゅんけい)が
病に倒れてしまい、
跡を継いだ
順慶の甥・筒井 定次(つつい さだつぐ)と
意見が合わず、
1588年、
筒井家を去り、
その後は、
豊臣 秀長(とよとみ ひでなが)に仕え、
秀長の死後は、
豊臣 秀保(とよとみ ひでやす)に仕えたと
言われていました。
その後、覚えていますか?
石田三成の熱意のある説得により、
仲間になることを受け入れ、
現代風でいうと、
この時のスカウト料が、
驚きの金額でした。
当時の石田三成の年間の売り上げが
4万石としたら、
なんと、
その半分の2万石をスカウト料として支払い、
重役クラスでスカウトしました。
そして、1600年、
「関ヶ原の戦い」の本戦が幕を切って落とされ、
当初は石田三成率いる西軍が
有利に戦を進め、
島左近も自ら陣頭に立ち大活躍しますが
この戦いにより、
61歳でその生涯を閉じることとなりました。
島左近の死亡説、生存説が3つずつあるのが、
本当にミステリアスでしたね。
「関ヶ原の戦い」での島左近の戦いぶりは、
徳川方でも有名となり、
『誠に身の毛も立ちて汗の出るなり』と
恐れられたことが
伝えられていました。
本当に戦い方が鬼のようにすごかったんだと、
推測できます。
そんな島左近が
残してくれた言葉、
・ただ城下の繁栄に驕って、
下々の憂苦を思わず、
武具にのみ力を入れて城郭を構築しても、
徳と礼儀がなければ甚だ危うい。
現代風で考えると、
会社の繁栄に伴って、
いろいろな部署の社歴の浅いメンバーだけでなく、
協力してくれている協力会社さんたちの
苦労も考えず、
自分たちの会社や上の人間だけが
稼げる仕組みを作っても、
会社として先がない。
つねに、
関係するすべての人たちに気にかけることや、
感謝の心が大切である!
と、教えてくれていると思いました。
皆さんはどう感じましたか?
上手くいってるときも、
ピンチでどうしたらいいんだろうとブルーなときも、
歴史の先輩から学ぶ。
先輩たちの人生を参考にしながら、
明日から、
いやいや今から
自分たちも理想的で素敵な人生を送るために、
自分のペースの明るく・楽しく・元気よく
で、過ごしていきましょう。
次回は、
人生最期の長篠の戦いまで無傷と噂の人物!馬場信房の生涯と名言とは
という話を紹介します。