関東大震災後の世界最大規模の帝都復興計画!後藤新平の生涯と名言!

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関東大震災後の世界最大規模の帝都復興計画を作り上げた後藤新平のイメージイラスト




岐阜県で遊説中に暴漢に刺され負傷した、

あの有名人を診察したり、



台湾総督の補佐役として活躍後、

すごい役職を歴任し、

関東大震災後、

世界最大規模となる驚きの帝都復興計画を立案した、

後藤新平を紹介させていただきます。




後藤新平を紹介させていただきます。




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ちなみに、

後藤新平は、

有名なあの会社の名付け親だそうです。





 



台湾でのエピソードは?ドラマに登場!後藤新平とはどんな人物なのか

関東大震災後の世界最大規模の帝都復興計画を作り上げた後藤新平が留学した時のイメージイラスト



1857年、

仙台藩水沢城下に、

仙台藩一門留守家の家臣・後藤実崇の

長男として生まれます。




実は、江戸時代後期の蘭学者であった、

高野長英は遠縁に当たります。




17歳で、恩師などから医者を勧められ、

気の進まないまま、

須賀川医学校に入学します。




気が進まない状態でも、

成績は優秀だったようです。












卒業後は、

愛知県医学校(現在の名古屋大学医学部)の

医者となります。




そして、なんと、

24歳で学校長兼病院長に昇進し、

病院に関わるすべての業務を担当することになります。


勤務する病院で岐阜県で遊説中に暴漢に刺され負傷し診察した人物とは?

あの板垣退助です。












その後、結婚。




1882年、

勤めていた、

愛知県医学校での実績や才能が認められ、

内務省衛生局に入局。




ここでは、

医者としてよりも官僚として、

病院・衛生に関する行政官として従事します。




1890年、

ドイツに留学、

帰国後、留学中の研究の成果を認められて、

医学博士号を取得。




1892年、

内務省衛生局長に就任します。




1893年、

精神病患者に対する対応に端を発した騒動である、

「相馬事件」により、

5ヶ月間収監され、

最終的には無罪となったものの、

責任を取らされ、

内務省衛生局長の職を辞めざる負えなくなります。












1895年、

日清戦争の帰還兵に対する検疫業務を行う、

臨時陸軍検疫部事務官長として官界に復帰し、




1898年、

台湾総督であった児玉源太郎の補佐役として、

大活躍します。



後藤新平が大活躍した理由その1


徹底した調査事業を行って

現地の状況を事細かに把握した上で、

「経済改革」と「インフラ建設」を

強引に進めます。



後藤新平が大活躍した理由その2

人材のスカウトも強化し、

日本の教育者・思想家でのちに『武士道』を執筆した、

新渡戸 稲造(にとべ いなぞう)を

アメリカから召集したり、




ペスト撲滅などに携わった、

高木 友枝(たかぎ ともえ)なども

仲間に引き入れます。





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ちなみに、

当時の台湾には、

日本よりも台湾で知名度が高く、

特に年配の人への知名度は抜群で、

しかも、台湾の教科書でも紹介され、

「台湾の恩人」と称される、

八田 與一(はった よいち)

就職後に配属されました。












その後、1906年、

南満洲鉄道の初代総裁に就任し、

大連を拠点に満洲経営に活躍します。




ここでも後藤新平は、

徹底した調査事業を行って

現地の状況を事細かに把握するために、

調査部を発足させるだけでなく、

台湾時代の優秀な人材を多く召集するとともに、

30代、40代の若手の優秀な人材をスカウトし、

満鉄のインフラ整備、

衛生施設の拡充、

大連などの都市の建設に当たります。




1919年、

拓殖大学の学長に就任します。




紆余曲折あった後藤新平、

その後、

どんな人生を歩んだのかを解説していきます。

 



歴史上の人物!すごい人、後藤新平の関東大震災後の驚きの復興計画!

後藤新平が関東大震災後の世界最大規模の帝都復興計画を実施し、完成した時のイメージイラスト

 

1908年、

第2次桂内閣で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁に就任、



1916年、

寺内内閣で内務大臣、



1918年、

寺内内閣で外務大臣、

しばらく国政から離れて、



1920年、

東京市長となり、



1923年、

第2次山本内閣で内務大臣



という、

すごい役職を歴任し続けます。




そして、

後藤新平の名を後世に残すことになった関東大震災後の世界最大規模の帝都復興計画

を紹介します。




関東大震災の直後に組閣されたのが、

第2次山本内閣となり、

そこで、後藤新平は、

内務大臣兼帝都復興院総裁として、

震災復興計画を立案します。










どういった計画だったかというと、

当時の国家予算の約1年分の13億円という巨額の予算で、

区画整理と公園・幹線道路の整備を計画した、

大規模な案となります。




しかし、

財界などから猛反対に遭い、

結局承認された予算は5億7500万円に過ぎず、

当初計画を大幅に縮小せざるを得なくなります。




その中でも、道路建設に当たっては、

東京から放射状に伸びる道路と

環状道路の双方の必要性を強く主張し、

予算が縮小されながらも実際に建設され、




現代でもインフラとして

そのまま利用されているだけでなく、




最近でも、

昭和通りの地下部増線に際しても、

立ち退きなどを伴わず工事を実施できたことから、

後藤新平の計画の先見性が改めて評価されています。












なお、

総理大臣候補として名前が何度も取り沙汰されるも結局就任できなかった原因


としては、




首相経験者であった

西園寺 公望(さいおんじ きんもち)の失脚を画策し、

それがバレてしまい、

嫌われたことが原因だと伝えられています。




そして、1929年、

遊説で岡山に向かう途中の列車内で倒れ、

71歳でその生涯を閉じることとなりました。









現代では、


テレビ

・1989年、 テレビ東京開局25周年記念特別番組、

 近藤真彦(青年期)、森繁久彌出演、

 「大風呂敷 後藤新平~時代をクリエートした男~」




・2012年、 – 讀賣テレビ放送制作のドキュメンタリードラマ、

 津嘉山正種主演、

 「復興せよ! 後藤新平と大震災2400日の戦い」




など、

数々の作品にも取り上げられています。








また、後藤新平をもっと詳しく知りたい方は、

ぜひ、ご覧ください。





文庫 後藤新平 日本の羅針盤となった男 (草思社文庫)



小説後藤新平 行革と都市政策の先駆者 (人物文庫)



国家とは何か (後藤新平の全仕事)



後藤新平 外交とヴィジョン (中公新書)



官僚政治 (シリーズ後藤新平とは何かー自治・公共・共生・平和)




1978年、

岩手県奥州市水沢大手町に

後藤新平記念館も設立された、

そんな彼の名言とは?

ピックアップしてみました。

ぜひ、元気をいっぱいもらってください。




ちなみに、

後藤新平が名付け親の会社とは

シチズン時計の名付け親だそうです。

 




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歴史上の人物!ドラマに登場!ボーイスカウト日本連盟初代総長の名言

関東大震災後の世界最大規模の帝都復興計画を作り上げた後藤新平の名言を知って、みんなで頑張ろうと一致団結したイメージ写真



・金を残して死ぬのは下だ。

 事業を残して死ぬのは中だ。

 人を残して死ぬのが上だ。



ん~、心に響きますね。

 

まとめ

関東大震災後の帝都復興計画を作り上げた後藤新平の生涯と名言を知って心が晴れ晴れとするイメージ写真



後藤新平の生涯を振り返ってみましょう。



1857年、

仙台藩水沢城下に、

仙台藩一門留守家の家臣・後藤実崇の

長男として生まれました。

実は、

江戸時代後期の蘭学者であった、

高野長英は遠縁に当たりましたね。




17歳で、恩師などから医者を勧められ、

気の進まないまま、

須賀川医学校に入学。



卒業後は、

愛知県医学校(現在の名古屋大学医学部)の医者となり、

なんと、

24歳で学校長兼病院長に昇進し、

病院に関わるすべての業務を担当することになりました。




さらに、

この病院で、

あの板垣退助を診察しました。












その後、結婚。




1882年、

勤めていた、

愛知県医学校での実績や才能が認められ、

内務省衛生局に入局。

ここでは、医者としてよりも官僚として、

病院・衛生に関する行政官として従事し、




1890年、

ドイツに留学、

帰国後、留学中の研究の成果を認められて、

医学博士号を取得




1892年、

内務省衛生局長に就任、



1893年、

精神病患者に対する対応に端を発した騒動である、

「相馬事件」により責任を取らされ、

内務省衛生局長の職を辞めざる負えなくなりました。






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1895年、

日清戦争の帰還兵に対する検疫業務を行う、

臨時陸軍検疫部事務官長として官界に復帰し、




1898年、

台湾総督であった児玉源太郎の補佐役として、大活躍、



ちなみに、当時の台湾には、

日本よりも台湾で知名度が高く、

特に年配の人への知名度は抜群で、

しかも、台湾の教科書でも紹介され、

「台湾の恩人」と称される、

八田 與一(はった よいち)

就職後に配属されました。











1906年、

南満洲鉄道の初代総裁に就任、




1919年、

拓殖大学の学長に就任しました。

紆余曲折だった後藤新平、

その後は華々しい人生でした。




1908年、

第2次桂内閣で逓信大臣・初代内閣鉄道院総裁に就任、




その後も、

内務大臣、外務大臣、東京市長など、

すごい役職を歴任し続けました。




そして、後藤新平の名を後世に残すことになった、

関東大震災後の世界最大規模の帝都復興計画、

すごかったですね。












当時の国家予算の約1年分の13億円という巨額の予算で、

区画整理と公園・幹線道路の整備を

計画した大規模な案でしたが、




財界などから猛反対に遭い、

結局承認された予算は5億7500万円に過ぎず、

当初計画を大幅に縮小せざるを得なくなりました。




その中でも、

道路建設案は、

予算が縮小されながらも実際に建設され、




現代でもインフラとして

そのまま利用されているだけでなく、




最近でも、

昭和通りの地下部増線に際しても、

立ち退きなどを伴わず工事を実施できたことから、

後藤新平の計画の先見性が改めて評価されました。




そして、

1929年、遊説で岡山に向かう途中の列車内で倒れ、

71歳でその生涯を閉じることとなりました。












後藤新平が残してくれた言葉、

・金を残して死ぬのは下だ。

 事業を残して死ぬのは中だ。

 人を残して死ぬのが上だ。












後藤新平が、

台湾総督の補佐役として、

また、南満洲鉄道の初代総裁に就任した際、




まずは、

徹底した調査事業を行って現地の状況を事細かに把握し、

事業を実施する際に、

必ず優秀な人材をスカウトしていました。




やはりどんな企業であっても、

「人がまず基本」であり、その一人一人を大切にし、

今以上の発展をつねに志すのはもちろんのこと、




将来的な観点から、

「存在意義」、「ノウハウ」などを

確実に継承することが大事で、

それが伝統、名門、企業力、

ひいては国力にもつながるのだと

いうことを教えてくれるような、

力強い言葉で、

後藤新平が

ボーイスカウト日本連盟初代総長に就任したのも、

必然だと思いました。

あなたはどう感じましたか?












上手くいってるときも、

ピンチでどうしたらいいんだろうとブルーなときも、

歴史の先輩から学ぶ。

先輩たちの人生を参考にしながら、

明日から、

いやいや今から

自分たちも理想的で素敵な人生を送るために、

自分のペースの明るく・楽しく・元気よく

で、過ごしていきましょう。




次回は、


イスラエルから評価!唐沢寿明出演で映画化【杉原千畝の生涯と名言】


という話を紹介します。

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