ピンチでどうしたらいいんだろうとブルーなときも

直江兼続!豊臣秀吉!徳川家康!との逸話とは?上杉景勝の生涯と名言

上杉景勝をイメージしたシルエット



「愛」の兜で有名な直江兼続(なおえ かねつぐ)に支えられた、上杉景勝。


直江兼続(なおえ かねつぐ)との出会いのきっかけは?



・上杉謙信の後継者争いである「御館の乱(おたてのらん)」勝利後の、

 思いも寄らぬ事態と、思わぬ出来事とは?



前田慶次との接点とは?



・実は、かなりの●●●であった!



そんな魅力たっぷりの上杉景勝を紹介します。




1556年、

越後国魚沼郡上田庄(現在の新潟県南魚沼市)の坂戸城下に

上田長尾家当主・長尾政景の次男として生まれ、

母親は、あの上杉謙信の実の姉である、仙桃院(せんとういん)です。




1564年、

父親の上杉 昌景(うえすぎ まさかげ)の死に伴い、

子どもであった、上杉景勝は

上杉謙信の養子となり、春日山城に入ることになります。

その際に、直江兼続(なおえ かねつぐ)と出会い、

一緒に生活したと伝えられている理由は、のちほど解説します。




1578年、

上杉謙信の急死により、上杉家の後継者争いである

「御館の乱(おたてのらん)」が勃発し、

上杉景勝が勝利し、

上杉謙信の後継者として、上杉家の当主となります。




この「御館の乱(おたてのらん)」の余韻が冷めやらぬ、

1581年、思いも知らぬ事態と、思わぬ出来事が起こり、

上杉景勝、上杉家滅亡の大ピンチに見舞われた後に、チャンスが訪れます。

正解はのちほど。




その後世の中は、豊臣政権時代となり、

1587年、豊臣秀吉の後ろ盾と協力を得ることに成功した上杉景勝は、

まずは、領土の安定化に向けて動き出します。

長年にわたり抗争状態にあった新発田 重家(しばた しげいえ)を倒し、

大部分の越後(現在の新潟県)の再統一を果たします。



その後、

豊臣秀吉の小田原征伐の際などに活躍し、




1595年、

豊臣秀吉から、越後・佐渡の金や銀が採掘できる山の支配を任された際の

エピソードがすごいんです。

正解はのちほど。




その後、1598年、

豊臣秀吉の命令で、上杉景勝は、突然、越後から会津に国替えを命じられます。

その理由は、のちほど解説します。




1598年、

豊臣秀吉が死去すると、上杉景勝の部下で家老の直江兼続が、

5大老の1人である石田三成と仲が良かったことなどから、

徳川家康と対立、

また、5大老の筆頭であるその徳川家康がその地位を盤石にしようと、

権力を振るうようになり、上杉景勝も標的となります。



そして、徳川家康から、

謀反を起こそうとする考えがないのであれば、

誓いの言葉を書いた紙を差し出し、

京都に来て、弁明せよ。という手紙が届きます。



その手紙の内容を見て、

上杉景勝の家臣、家老の直江兼続(なおえ かねつぐ)が、

徳川家康へ返事を書きます。



その手紙の内容を見て、徳川家康は激怒、

上杉軍を討伐するための会津遠征を決意させるきっかけと

なったと言われています。




1600年、

徳川家康は大軍を率いて、

京都の伏見城を出発し、江戸城に入城、

会津征伐の機会をうかがいます。



実はこの時、

あの前田慶次が上杉家の客将(かくしょう)として、戦いに参加しています。

前田慶次が、客将(かくしょう)として

戦いに参加した2つの理由と、

2度目となる、上杉家滅亡の大ピンチに、

この時またしても、

思わぬ出来事が起こります。

2つの理由と思わぬ出来事は、のちほど解説します。




1601年、

家老の直江兼続(なおえ かねつぐ)とともに京都に向かい、

徳川家康に謝罪、

徳川家康から罪を赦された上杉景勝は、

150万石から、米沢のみ30万石へ大幅に収入を減らされますが、

上杉家の存続は許されます。




その後は、

米沢藩の発展のために、政治・経済などの改革に力を入れ、




1614年、

「大坂冬の陣」では、直江兼続(なおえ かねつぐ)とともに出陣、

「鴫野の戦い(しぎののたたかい)」などで大きな手柄を立てるなどし、




1623年、

米沢城において、69歳でその生涯を閉じることとなりました。




そんな魅力いっぱいの、上杉景勝の生涯を

分かりやすく解説させていただきました。

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台湾を愛した日本人!台湾の教科書にも紹介される八田與一の生涯とは

台湾の教科書でも紹介され台湾の恩人と称される八田與一像



日本よりも台湾で知名度が高く、特に年配の人への知名度は抜群。

しかも、台湾の教科書でも紹介され、

「台湾の恩人」と称される、八田 與一(はった よいち)とは、

いったいどんな人物で、どんな人生を歩んだのかを紹介していきます。




1886年、

石川県河北郡花園村(現在の金沢市今町)生まれ、




1910年、

東京帝国大学工学部土木科を卒業後、

台湾総督府内務局土木課の技術者として就職します。



当時の台湾は、日本統治時代となり、

児玉源太郎の補佐役で、初代民政長官であった後藤新平以来、

マラリアなどの伝染病予防対策に重点が置かれいて、

八田 與一(はった よいち)も就職後の配属先で、

当初は衛生事業に従事し、

嘉義市・台南市・高雄市など、各都市の上下水道の整備を担当することになり、

この最初の職場で、浜野弥四郎という人物が上司となり、

この上司から多くのことを学びます。




その後、八田 與一(はった よいち)は、

発電事業や水路を作って田畑に必要な水を引く灌漑(かんがい)事業の

部門に異動し、

そして、28歳となった八田 與一(はった よいち)が、

当時着工中であった桃園大圳(とうえんたいしゅう)の水利工事を任せられ、

この工事を成功させるのです。




その後、31歳で、

外代樹(とよき)と結婚。




公私ともに順調な八田 與一(はった よいち)のその後は、




1918年、八田 與一(はった よいち)は、

台湾南西部の嘉南平野(かなんへいげん)の調査を行うことになります。



ここは、台湾の中でも広い面積を有していましたが、

昔から台湾でも土壌が良くなく、

さらに降雨が少ない上に、雨季の時期に、年間雨量の9割が集中、

これにより、元々平坦な土地というだけでなく、排水も悪かったことから、

洪水や干ばつが繰り返されるという非常に厳しい土地となります。



ここで、八田 與一(はった よいち)は、

壮大な事業規模となる計画を立てます。

詳細は後ほど、解説します。




その後、

1920年~1930年の10年間、

八田 與一(はった よいち)は、この壮大な事業を成功させるまで

工事を指揮します。

ところが、この事業を成功させるまでに

2つの大きなピンチを迎えるのです。

詳細は後ほど、解説します。




そして1942年、

太平洋戦争中、陸軍の命令によって3人の部下と共に、

フィリピンでの水路を作って田畑に必要な水を引く灌漑(かんがい)調査の

ため、広島県宇品港で客船大洋丸に乗船し、出港。

フィリピンに向かう途中の五島列島付近において、

アメリカ海軍の潜水艦により撃沈され、八田 與一(はった よいち)も

巻き込まれ、56歳でその生涯を閉じることとなりました。




そんな、

八田 與一(はった よいち)の生涯を

分かりやすく解説させていただきました。

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上杉謙信!前田慶次!伊達政宗!エピソードは?直江兼続の生涯と名言

上杉景勝を生涯支え続け、前田慶次とも仲が良かった、直江兼続の銅像



上杉景勝を生涯支え続け、前田慶次とも仲が良かった、直江兼続。

上杉家9代藩主、上杉 鷹山(うえすぎ ようざん)の代に、

財政破綻寸前の窮地に追い込まれた米沢藩を救う指針となった、

直江兼続が実施した方法とは?



また、最後に直江兼続の負けず嫌いの性格を表した、

江戸城の廊下で伊達政宗とすれ違った際のエピソードなど、

魅力たっぷりの直江兼続を紹介します。




1560年、

樋口兼豊の長男として生まれ、




1564年、

父親の上杉 昌景(うえすぎ まさかげ)の死に伴い、

子どもであった、上杉景勝は上杉謙信の養子となり、

春日山城に入ることになり、

その際に、直江兼続は、上杉謙信の実の姉で、上杉景勝の母親であった、

仙桃院(せんとういん)から、

上杉景勝の身の回りの雑用を務める役に任命され、

上杉景勝とは幼い頃から一緒に生活したと伝えられています。




1578年、

上杉謙信の急死により、上杉家の後継者争いである、

「御館の乱(おたてのらん)」が勃発、

この乱において、直江兼続の活躍などもあり、

上杉景勝が勝利し、上杉謙信の後継者として、

上杉家の当主となります。




1581年、

22歳であった直江兼続は上杉景勝の命により、

直江景綱の娘で、殺害された直江信綱の妻であった

25歳の船の婿養子(船の立場としては再婚)として結婚し、

跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となります。

直江兼続と船の仲の良さが分かる出来事は、

のちほど解説します。




また、

直江兼続のシンボルマークとなっている、

「愛」の字を前面につけた飾りのある兜は、何からとられものなの?

解説も、のちほど。




その後も上杉景勝とともにし、



・本能寺の変



・豊臣政権時代



徳川家康が台頭し始めた際のエピソード



・石田三成が大阪で挙兵した際に訪れた、

 歴史を大きく変えることのできるチャンスにどうしたか?



・徳川政権時代の、直江兼続と伊達政宗のやりとり



など、

いろいろなエピソードが満載の直江兼続、

60歳でその生涯を閉じることとなった、

そんな魅力いっぱいの、直江兼続の生涯を

分かりやすく解説させていただきました。

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豊臣秀吉!黒田官兵衛との逸話と家紋の由来!竹中半兵衛の生涯と名言

竹中半兵衛をイメージしたイラスト



豊臣秀吉から三顧の礼で迎えられ、

黒田官兵衛の子、黒田長政を一計を案じ救った、

天才調略士、竹中半兵衛の生涯と名言を紹介します。



現代では、

●テレビ
・2011年、山本耕史出演、テレビ東京新春ワイド時代劇

 『戦国疾風伝 二人の軍師 秀吉に天下を獲らせた男たち』 



●ゲームでは、

・信長の野望

・戦国BASARA

・モンスト


●マンガでは、

 転生無双




など、

数々の作品にも取り上げられ、

近年、人気急上昇の注目人物、竹中半兵衛の生涯を紹介します。




1544年、

美濃斎藤氏の家臣で、

美濃国大野郡大御堂城(現在の岐阜県揖斐郡大野町)

城主・竹中重元の子として生まれ、




1556年、

国を譲り隠居した斎藤道三と、

斎藤道三の息子、斎藤 義龍(さいとう よしたつ)との戦いである、

「長良川の戦い」が初陣となります。



ちなみに結果は、息子の斎藤 義龍(さいとう よしたつ)が

勝利します。




1559年、

父親が菩提山城を築いて、

この城に引っ越したため、竹中半兵衛もそれにお伴し、




1560年、

家督を相続し、菩提山城主となりました。




その後、

美濃国の国主・斎藤 義龍(さいとう よしたつ)に仕え、




1561年、

斎藤 義龍(さいとう よしたつ)が死去すると、

その後を継いだ斎藤 龍興(さいとう たつおき)に仕えます。




この頃から、ある者が、美濃への侵攻に力を入れはじます。

その人物と侵攻する理由、

また、その戦いの経緯はのちほど解説します。




その後、

当時23歳の竹中半兵衛がある行動をとります?

正解はのちほど。




その後、

織田信長は竹中半兵衛を自分の家臣として

登用したいと考え、

竹中半兵衛のスカウトに抜擢したのは、

美濃攻めで頭角を徐々に現していた木下秀吉(後の豊臣秀吉)。



木下秀吉(後の豊臣秀吉)は、

蜂須賀正勝・前野長康を伴い、

「三顧の礼」で竹中半兵衛を誘ったとされています。



竹中半兵衛は、この時に、木下秀吉(後の豊臣秀吉)の

類い稀ない(たぐいまれない)才能を見抜き、

織田信長に直接仕えることは拒否しましたが、

木下秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣となることには、

了承したとされています。




その後の竹中半兵衛の戦での活躍と、

竹中半兵衛が一計を案じた

黒田官兵衛、黒田長政とのストーリーは、

のちほど、解説します。




その後、1579年、

織田氏と別所氏の合戦、

「三木合戦中」に病に倒れ、

陣中にて、

36歳という若さでその生涯を生涯を

閉じることとなりました。




天才調略士として大活躍した、

竹中半兵衛の生涯を

分かりやすく解説させていただきました。

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NHK大河ドラマ!信長の野望!ixaに登場!山本勘助の生涯と最期

山本勘助をイメージしたシルエット



武田信玄ではなく、もし、今川義元が山本勘助を雇っていたら、

「桶狭間の戦い」はどうなっていたんでしょうか?

歴史が変わっていたかもしれません。

守護神のようだとあがめられた、そんな山本勘助を紹介します。




現代では、


●テレビ

・2007年、NHK大河ドラマ

 原作:井上靖、脚本:大森寿美男、主演:内野聖陽

 『風林火山』




●ゲーム

・信長の野望




●アプリ

・戦国炎舞



など、

数々の作品にも取り上げられ、

近年、人気急上昇の注目人物、山本勘助の生涯を紹介します。




誕生は、

1493年または1500年の2つの説があり、

生まれも、

三河国(現在の愛知県)または、駿河国(現在の静岡県)という

2つの説があります。




その後、

山本勘助は、10年間、中国、四国、九州、関東の諸国をめぐり歩き、

京流(または行流)と呼ばれる「兵法」を会得するだけでなく、

「築城術」や「陣取りなどの戦法」を極めたと伝えられています。




そして、

1536年、37歳となった山本勘助、

駿河国主今川義元に仕えたいと思い、ツテを頼るも、

結果は不合格となりました。

不合格になった2つの理由は、

のちほど紹介します。




その後、

武田信玄が山本勘助の才能を見抜き、

破格の待遇で、召し抱えることにします。




同年、武田信玄が信濃国へ侵攻すると、

山本勘助は、なんと9つもの城を落とすという

大きな手柄を立て、その才能を証明しました。




1546年、

武田信玄は信濃国小県郡の村上義清の戸石城を攻め立てた際、

当初、武田勢は総崩れとなり撤退するだけでなく、

なんと、追撃を受けて全軍崩壊の危機に陥ってしまいますが、

山本勘助が守護神のようだとあがめられるような、

縦横無尽の活躍をします。

活躍の内容はのちほど紹介します。




そして1561年、

あの「川中島の戦い」が始まりました。

上杉謙信軍は、1万3000の兵を率いて、

妻女山(さいじょさん)に陣を構え、

武田信玄の海津城を攻めようとします。



一方、武田信玄も2万の兵を率いて、

これに対抗します。



山本勘助、

「啄木鳥戦法(きつつきせんぽう)」を立案し、

上杉謙信を倒そうとしますが、

結果は敗北するだけでなく、

山本勘助も69歳でその生涯を生涯を閉じることと

なってしまいました。



戦いの内容や、山本勘助が亡くなった理由は、

のちほど解説します。




浪人から大活躍した、

そんな、山本勘助の生涯を

分かりやすく解説させていただきました。

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大河ドラマ!佐々木小次郎!二刀流!小倉碑文!宮本武蔵の生涯と名言

宮本武蔵をイメージしたシルエット



なんと60戦無敗の男で、

「巌流島の合戦」で有名な宮本武蔵の生涯と名言を紹介します。

また「二刀流」で、しかも「木刀」を使うことになった理由も合わせて、

紹介させていただきました。




1584年、

出生地は現在の兵庫県姫路市など諸説あるだけでなく、

父親も、

戦国時代の剣豪、新免 無二(しんめん むに)とされていますが、

こちらもいろいろな説があり、

解明されていません。




13歳で初めて有馬喜兵衛という人物と決闘し勝利、




16歳で但馬国(現在の兵庫県豊岡市)の秋山という強力な兵法者に勝利、




なんと、それから29歳まで、

約60回の勝負を行い、無敗と伝えられています。





なんでそんなに強いのか?の理由を

のちほど、1つ紹介させていただきました。




その後、

「大坂の陣」では、

水野勝成の客将として徳川方に参陣して、

活躍したことが数々の資料に記載されています。




1640年、

熊本藩主の細川忠利に、

今でいうとお客様という立場で招かれて、

熊本城から東側にある千葉城に屋敷が与えられ、

鷹狩りが許されるなど、

非常に破格の待遇で迎えられました。

この頃に製作した水墨画や木刀などが、

現代に伝えられています。




そんな宮本武蔵といえば、やはり佐々木小次郎との対決である、

「巌流島(がんりゅうじま)の決闘」。

この決闘の行われた時期について諸説あり、定かではなく、

しかも、

9つものシナリオがあり、今回2つだけ紹介しました。

イメージ通りと、驚きの結果は、

のちほど、解説させていただきます。




また、

最後に明確な根拠はありませんが、

歴史の醍醐味であるロマンがあるため、

「二刀流」となった2つの理由と、

「木刀」を使うことになった理由を

紹介させていただきました。




いろいろな説がある、宮本武蔵。

ついに1645年、

享年62歳でその生涯を閉じることとになりました。




そんな、

服部半蔵の生涯を

分かりやすく解説させていただきました。

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容貌がすごく身長が戦国ナンバー1の忍者と名高い!風魔小太郎の生涯

身長が戦国時代ナンバー1の忍者と名高い風魔小太郎のイメージ写真

 

身長が戦国時代ナンバー1の忍者と名高いだけでなく、

伝えられている容姿がものすごい!

ミステリアスな忍者、風魔小太郎の生涯を紹介します。




相模国小田原(現在の神奈川県小田原市)に居城を構えていた、

後北条氏(ごほうじょうし)5代将軍の北条氏直に仕えた

忍者集団のトップであったと思われます。



伝えられている、

容姿と戦い方がすごいのです。

のちほど、解説します。




その後、

大活躍をした風魔小太郎率いる忍者集団ですが、

豊臣秀吉の「小田原攻め」により、

主君、北条氏直を失い、




最後は、

江戸の奉行所による「盗人狩」が行われ、

江戸近辺を荒らしまわっていた盗賊が根絶やしにされ、

その中に風魔小太郎もいたと推測されています。




そんな、

風魔小太郎の生涯を

分かりやすく解説させていただきました。

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伊賀!影の軍団!実は松尾芭蕉!?忍者で有名!服部半蔵の生涯と名言

伊賀忍者で有名な服部半蔵をイメージした写真



非常に不利な状況からの、あの有名な「●●越え」で、

徳川家康をピンチから救い、

「日本の忍者ランキング」で必ず上位に上がる、

服部半蔵の生涯と名言を紹介します。




服部半蔵は、

父親の服部半三保長(はっとりはんぞうやすなが)から、

自分の人生の経験を踏まえて、

息子の半蔵には、

忍者ではなく、足軽になるように促されます。




1557年、

服部半蔵が伊賀の忍者を率いて、

功績をあげたといわれていますが、

いつ頃から徳川家康(当時は、松平元康)に

仕えたかはまだ解明されていません。




1560年、

この頃、服部半蔵の父親、

服部半三保長(はっとりはんぞうやすなが)は、

忍者になることを諦めなかった服部半蔵に、

伊賀流忍術の秘伝書、「忍秘伝(にんぴでん)」を授け、

この世を去ったといわれています。




ついに、父親から忍者になることを認められた、

服部半蔵。

その後の人生は、

戦いの連続でした。

詳細はのちほど、解説します。




1579年、

徳川家を揺るがした、

大事件が勃発します。

解説はのちほど。




1582年、

非常に不利な状況からの

あの有名な「●●越え」は、

のちほど、詳しく解説します。




その後1569年、

55歳でその生涯を閉じることとになりました。




そんな、

服部半蔵の生涯を

分かりやすく解説させていただきました。

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関ヶ原の戦い後も生存?石田三成との関係?最強!島左近の生涯と名言

島左近が気合いが入っているイメージのイラスト



様々な理由から、合計6人もの主人に仕えることとなった、島左近。

6人目の主人、石田三成に雇われる際の内容に驚きです!

そんな、ミステリアスな人物、島左近の生涯と名言を紹介します。




1540年、

出どころは現在も明らかでないですが、

大和国(現在の奈良県)生まれ。




その後、

大和国にも勢力を拡大していた、

畠山 高政(はたけやま たかまさ)をはじめ、

いろいろな理由から、

合計6人の主人に仕えることとなります。

詳細なのちほど解説します。




6人目に、

石田三成の仲間となりますが、

その内容がすごいんです。

詳細はのちほど解説します。




そして、1600年、

「関ヶ原の戦い」の本戦が幕を切って落とされ、

当初は石田三成率いる、西軍が有利に戦を進めます。

島左近も自ら陣頭に立ち大活躍しますが

この戦いにより、

61歳でその生涯を閉じることとなります。




しかし、島左近には、

●●説、●●説が3つずつあるという、

本当にミステリアスな人物となります。

正解はのちほど。




「関ヶ原の戦い」での島左近の戦いぶりは、

徳川方でも有名となり、

『誠に身の毛も立ちて汗の出るなり』と恐れられたことが、

伝えられています。

本当に戦い方が鬼のようにすごかったんだと、

推測できますね。




そんな、島左近の生涯を

分かりやすく解説させていただきました。

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漫画「花の慶次」で有名に!かぶきもので人気の前田慶次の生涯と名言

漫画の花の慶次で有名になったかぶきもので人気の前田慶次のイメージイラスト



戦国時代「豪快なかぶき者」と伝えられているミステリアスな人物で、

近年、人気急上昇中の前田慶次。

彼の生涯と名言を紹介します。




誕生は、

1532年~1541年の間、




名前は、

前田 利益(まえだ とします)をはじめ、

さまざまな名前が伝えられているだけでなく、




実は父親も生地も判明していないという、

生まれた時から、

ミステリアスたっぷりなところが、

人気の秘密の一つなのかもしれません。




養父に育てられ、

1582年、

「本能寺の変」が起こり、

前田慶次は、滝川軍の先発隊として戦い、




また、1584年、

「小牧・長久手の戦い」では、

佐々成政を退却させ、




1590年、

豊臣秀吉の「小田原征伐」が始まると

前田利家とともに出征したりしました。




ところが、理由は定かではありませんが、

1590年以降から、

前田慶次、

突然、思いもよらぬ行動をとります。

正解はのちほど。




その後、京都での浪人生活では、

前田慶次が非常に知的な人物であったことが推測される出来事や

その後、仕えることになる、

上杉景勝との出会いのエピソードも紹介します。




1598年~1600年、

「関ヶ原の戦い」が勃発し、

この期間、上杉景勝に雇われます。

上杉景勝との初顔合わせの際の逸話が、

これまた、

すごく知的で、カッコ良いですよ!!




その後、

「関ヶ原の戦い」などを経て、

人生の最期、

亡くなった場所や時期も2つの説があるという、

本当に最後までミスリアスな人生の、

前田慶次。




そんな、

前田慶次の生涯を

分かりやすく解説させていただきました。

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