日本マクドナルドの創業者、
藤田田(ふじたでん)
日本にハンバーガーという食文化を定着させた、
藤田田とは、どんな人生を歩んだのか?
分かりやすく解説させていただきます。
なお、最近でも、
日本の飲食業界に伝説を作った、
藤田田(ふじたでん)の影響力は根付いています。
2022年10月7日 日経MJの記事
「HISTORY 暮らしを変えた立役者」に、
鳥貴族ホールディングス社長 大倉忠司氏の記事が
掲載されていました。
要約すると、
新型コロナウィルスが起こる前から
構想を温めていた、
新業態店
チキンバーカー専門店「トリキバーガー」を、
2021年8月 東京の大井町にオープしました。
なぜ、バーガー専門店だったのかの問いに、
『飲食人生の根底に日本マクドナルドがあるからです。
誰もが手を出せる価格で、全国に3,000店舗以上を
展開する、すごいビジネスです。』
最後にの文面には、
日本の飲食業界に伝説を作った、
藤田田への尊敬の言葉で締めくくられています。
『日本マクドナルドの創業者である藤田田さんの
書籍はすべて読み、大切に置いてあります。
外食一の売り上げだけでなく、
日本最高の給料水準にすることを目標にする、
その経営姿勢。
創業の時に抱いた「焼鳥のマクドナルドになる」
とのお思いは今も変わりません。』
目次
マクドナルド創業!藤田【ユダヤの商法の著者】どんな人物で何した人
1926年
大阪府で生まれ
藤田田(ふじたでん)という名前の由来は、
母親がキリスト教徒で、
「口」という感じに「十字架」を加えて、
よい言葉を語るような人になって欲しいという思いから、
「田」という名前が付けられたとされています。
成績は優秀で、
1944年
東京大学法学部へ入学。
在学時に授業料と生活費を稼ぐために通訳の仕事をするが、
ここで衝撃的な体験をします。
通訳の仕事を通じて出会った、
兵隊の位は高くなく、
どちらかと言えば、
位が低いために軽蔑をされていた
ユダヤ人たちの兵隊が、
貸金業を営み、贅沢な暮らしをしているのを知り、
衝撃を受けるのです。
その後、藤田は、
彼らとの深い付き合いを通じて、
「ユダヤ商法」を学びます。
その後、
「ユダヤ商法」の学びから、
東大2年の在学中に、ヨーロッパに行き、
在学中の1950年、
輸入雑貨販売店「藤田商店」を設立します。
1968年
藤田はアメリカンオイル
(著書では「ユダヤ人の会社」と表現されている)という会社から、
ナイフとフォーク300万本の注文を受けることに成功します。
ところが、
ここで問題が発生します。
藤田は岐阜県にあるナイフとフォークの製造会社に、
仕事を発注しましたが、
田植えの時期と重なったこともあり、
期限内に商品が完成されなかったのです。
そのため、当初予定していた船舶での輸送では、
期限内にアメリカに納品できない事態に陥ってしまいます。
唯一、納期内に納品させる手段としては、
飛行機をチャーターすること。
ただし、そうすることで、
採算が合わなくなってしまいます。
藤田田がどうしたのか?
信用が非常に大事であり、
納期をなんとしてでも守りたかったため、
当時の日本円で1,000万円の費用をかけて、
なんと飛行機をチャーターし、
なんとか期限内に納品させることに成功します。
このピンチの状況から、
約束を守り、期限内に納品したことで、
翌年は、
前回の倍となる
ナイフとフォーク600万本の注文を受けることに成功します。
ところが、
またここで問題が発生します。
前年同様、
日本国内での生産が間に合わず、
再び飛行機をチャーターし、
期限内に納品させることに成功します。
この2度に渡り、
期限内に納品させるために、
飛行機をチャーターしたことは、
藤田はお金の面で、
大損することになりましたが、
お金では買えない、
ユダヤ人の信用を得ることにつながり、
「あいつは約束を守る日本人だ」という情報が、
世界中のユダヤ人に伝わった伝えられています。
ユダヤ人の信用を得た藤田!ついにマクドナルド創業など快進撃が続く
1971年
日本マクドナルド
1989年
アメリカのおもちゃ専門チェーン、トイザらスの日本法人
日本トイザらス
1991年
アメリカのレンタルビデオチェーン、ブロックバスターの日本法人
日本ブロックバスター
1995年
世界一のネクタイ・スカーフ製造販売会社である、
イギリスのタイラック社と提携し、
日本タイラック
事業内容が違う4業態の会社を
驚くスピードで創業し、
「藤田商店」は、順調に事業を拡大し、
展開していきます。
その中でも、
「藤田商店」の稼ぎ頭であり、
1番有名なマクドナルドの経営において、
日本の経済状況もあり、
日本全国で「価格競争」を引き起こすなど、
経済感覚、会社経営に長けたカリスマ的人物として、
さらに脚光を浴びることになります。
2000年
平日半額セールなどの新戦略を展開し、
デフレ下でも業績を伸ばします。
2001年
ジャスダック市場に上場
日本マクドナルドは「デフレ時代の勝ち組」
社長の藤田は「ハンバーガー王」と称されます。
ところが、
平日半額セールなどに慣れてしまった消費者が、
日本マクドナルドが、
インフレが来るという理由で、
半額セールを打ち切ったことで、
日本マクドナルドに行く機会を減らしたことから、
客数が減ってしまうのです。
その状況から、
日本マクドナルド再び値下げするなど対応を打ちますが、
価格政策の迷走で経営が悪化してしまうだけでなく、
BSE問題の影響もあり、
2001年
創業以来初の赤字に転落してしまいます。
2002年
日本マクドナルドの不振や体調不良などにより社長を辞任
2002年
会長兼CEOに就任。
2002年
12月期連結決算で創業以来の最終赤字になったことから、
責任を感じ、
2003年の株主総会後に会長を退任します。
日本マクドナルドの経営から退いた後は、
公の場に出る機会は少なくなり、
2004年
心不全のため東京都内の病院で79歳で
この世を去ります。
遺産総額は、約491億円。
歴代6位でした。
マクドナルド創業者の藤田!ソフトバング創業者の孫正義との関係は?
当時、16歳の高校生であった孫正義の訪問を受け、
『これからはどんなビジネスが当たりますか?』という
孫正義の質問に、
『コンピューター関連を学ぶように』と
藤田田は助言したとされています。
その助言通り、
孫正義は、このアドバイスを素直に聞き入れて、
アメリカに旅立ちます。
その後の孫正義の成功は、
日本に暮らしいる方なら、誰もが知ることとなります。
ここで、ほっこりエピソードが。
その後、数年が経ち、
孫正義から食事に招待され、
非常に感激した藤田田は、
孫正義の会社から、
会社用のパソコンを300台発注したということです。
ソフトバング孫正義にも助言!マクドナルド創業者の藤田田の名言と本
・小さな改善を毎日積み重ねるしか手はねえんだ。
・努力×時間の法則、一日24時間。
成功はいかなる人にも平等に与えられた、
この24時間にどれだけ努力するかにかかっている。
人生に満塁ホームランはない。
ゴロやバントを狙え。
人間の頭の中身など、もともと大差などない。
最後はいつも本人の、努力×時間。
・私は人生というものはなるようにしかならないと考えている。
だから最悪の状態が来てもジタバタしない。
これ以上悪くならない。
そう思って落ち着いている。
今が最悪だからこれからやよくなる。
そう思ってがんばる。
・僕らはね、週に1回は立ち喰いでも良いから、
蕎麦食いたい。
うどん食いたいと思うでしょ。
マクドナルドもそんな存在になりたいんだよね。
・金はある手から洩れてくる。
金の絶対数がないところでは、
いくら知恵をしぼっても洩れてはきはしないのである。
なんであれ、
ビジネスは現実に金を持っている人から取らないとなりたたない。
金を持っていない人びとを相手にしていては、
どんなにあがいても商売できるものではない
・人は金と使命感で働く。
・本を読め、人と会え、街を歩け。
・今日来たお客様は、明日こないかもしれない。
いま、何をすべきか、それがこのビジネスのすべてである。
・ 短時間に大きいことをやろうとあせるよりも、
時間をかけて大きいことを成すべきである。
・事業にしても、たった一つの理由で成功していると、
ひっくり返る可能性がある。
細かいことの積み重ねを怠らないことが成功の秘訣である。
積み重ねるものは、
それがどんなに小さなものであっても心配することはない。
・傍観者ではダメである。
どんな仕事でも、当事者になることが肝心である。
・人生は不平等である。
しかも、この与えられた不平等は
どうあがいても変えられないものである。
あとは挑戦あるのみである。
不平等に屈してはならない。
・一日は二十四時間で、
しかも万人に与えられている。
その時間をいかに有効に使っていくかが勝負である。
二十四時間の積み重ねがツキを招き、
成功に至るのだから、
一分一秒といえどもおろそかにすべきではない。
・当然だが世界経済の頂点に立つユダヤ人に対する反目は強い。
しかし、五千年の歴史を持つ彼らの生き方の前では、
ほかの民族はまったく歯が立たないのである。
・毎分、毎分判断してジャッジを下していく積み重ねが、
大きな人生になっていく。
成功する原因は自分がつくっているのである。
その成功の見えない原因を人は「運」と呼ぶが、
見えないだけで原因は存在しているのである。
・ビジネスは「勝てば官軍」である。
企業は勝たなければならない。
勝つことによって、社会にいろいろな主張が言えるようになる。
実績を上げられない経営者が何を言っても、
負け犬の遠吠えとしか世間は見てくれないであろう。
敗者は滅びるのみである。
・健全なる肉体に健全なる精神が宿るように、笑顔の店には金が宿る。
・ 凡眼には見えず。心眼を開け。
好機は常に眼前にあり。
・儲けるとは何か。簡単なことだ。
去年より売り上げを伸ばし、利潤を上げればよいのである。
これを毎年繰り返していけば、企業は必ず成長していく。
・ 経営には一貫した哲学がいるんです。
自分がこうだと思ったら、世の中がどう動こうと誰がなんと言おうと、
それを堅持していかなければならない。
みんなが”だめだ”と言うから成功すると思った。
・ベンチャービジネスは10人のうち7人が賛成するようなことを
やっていたのではダメである。
むしろ10人のうち7人が反対したから注目するのだ、
という考えこそ必要である。
・社長業は24時間の勤務体制や
・ ビジネスの生存競争では、効率のよい方が生き残るのです。
・わたしは、週休二日制なのに、
月曜日に休むやつは最低だと思っている。
社員にも、絶対に月曜日休んではダメだ、
月曜に休むのなら出社に及ばずときつく言い渡している。
だってそうではないか。
土曜日、日曜日と休めば、その間に仕事はたまっているのである。
・どんな環境にあろうとも売上を伸ばすのが商人の知恵であり、
才覚である。
売り上げの低迷を世の中や政治のせいにするのは、
己の知恵のなさや勉強不足を露呈しているに過ぎない。
現にマクドナルドは年に20%の売り上げの伸びを示し、
外食産業初の年商一千億円を達成しているのである。
ん~、心に響きますね。
マクドナルド創業者の藤田田をもっと詳しく知りたい方は、
ぜひ、ご覧ください。
勝てば官軍(新装版)
藤田田 金儲けのプロの教え (ビジネスの巨人シリーズ)
まとめ
マクドナルド創業者の藤田田の生涯を振り返ってみましょう。
1926年
大阪府で生まれ
藤田田(ふじたでん)という名前の由来は、
母親がキリスト教徒で、
「口」という感じに「十字架」を加えて、
よい言葉を語るような人になって欲しいという思いから、
「田」という名前が付けられたとされています。
1944年
東京大学法学部へ入学
在学時に通訳の仕事を通じて出会った、
ユダヤ人たちの兵隊が、
貸金業を営み、贅沢な暮らしをしているのを知り、
衝撃を受け、
彼らとの深い付き合いを通じて、
「ユダヤ商法」を学びます。
在学中の1950年、
輸入雑貨販売店「藤田商店」を設立
1968年、1969年
(著書では「ユダヤ人の会社」と表現されている)という会社から、
ナイフとフォーク注文を受けることに成功するも、
日本国内での生産が間に合わず、
2度に渡り、
期限内に納品させるために、
飛行機をチャーターしたことで、
藤田はお金の面で、
大損することになりましたが、
「あいつは約束を守る日本人だ」という情報が、
世界中のユダヤ人に伝わった伝えられています。
1971年
日本マクドナルド創業
1989年
アメリカのおもちゃ専門チェーン、トイザらスの日本法人
日本トイザらス創業
1991年
アメリカのレンタルビデオチェーン、ブロックバスターの日本法人
日本ブロックバスター創業
1995年
世界一のネクタイ・スカーフ製造販売会社である、
イギリスのタイラック社と提携し、
日本タイラック創業
2000年
平日半額セールなどの新戦略を展開し、
デフレ下でも業績を伸ばす
2001年
ジャスダック市場に上場
2002年
日本マクドナルドの不振や体調不良などにより社長を辞任
2002年
会長兼CEOに就任
2002年
12月期連結決算で創業以来の最終赤字になったことから、
責任を感じ、
2003年の株主総会後に会長を退任
日本マクドナルドの経営から退いた後は、
公の場に出る機会は少なくなり、
2004年
心不全のため東京都内の病院で79歳で
この世を去ります。
マクドナルド創業者の藤田田が残してくれた言葉、
・努力×時間の法則、一日24時間。
成功はいかなる人にも平等に与えられた、
この24時間にどれだけ努力するかにかかっている。
人生に満塁ホームランはない。
ゴロやバントを狙え。
人間の頭の中身など、もともと大差などない。
最後はいつも本人の、努力×時間。
日本にハンバーガーという食文化を定着させた人から、
「やればできる!」
と言われているようで、
勇気と元気がもらえますね。
あなたはどう感じましたか?
上手くいってるときも、
ピンチでどうしたらいいんだろうとブルーなときも、
歴史の先輩から学ぶ。
先輩たちの人生を参考にしながら、
明日から、
いやいや今から
自分たちも理想的で素敵な人生を送るために、
自分のペースの明るく・楽しく・元気よく
で、過ごしていきましょう。
次回は、
任天堂!イチローとの関係は?山内溥【出生名は山内博】の生涯と名言
という話を紹介します。