任天堂!イチローとの関係は?山内溥【出生名は山内博】の生涯と名言

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山内溥【出生名は山内博】をイメージしたシルエット




花札やトランプを製造する会社であった任天堂。


その任天堂を、

どのようにして、

今の世界的な企業に発展させたのか?




その立役者である、

山内溥【出生名は山内博】とは、どんな人生を歩んだのか?

分かりやすく紹介させていただきます。



なお、

渋谷PARCO 6Fにある「ニンテンドートウキョウ」に継ぐ、

国内直営店、2店舗目として、

2022年11月11日(金)

大阪市にある大丸梅田店13Fに、「ニンテンドーオオサカ」を、

オープンしました。




「ゼルダの伝説」「スプラトゥーン」など、

人気の関連グッズやソフトソフトなど、

2,000点以上の商品があるだけでなく、

Tシャツなど、大阪大阪限定の商品も

取りそろえているとのことなので、

ファンにはたまりません。


また、

国内直営店、3店舗目として、

2023年10月17日(火)に京都市内に「ニンテンドーキョウト」を

開業すると発表。

店舗概要や販売製品など詳細は明らかになっていないので、

どんな限定商品が発売されるのか、

今から待ち遠しいですね。


店舗の情報はこちらから、ご覧ください。


https://www.nintendo.co.jp/officialstore/




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任天堂!イチローとの関係は?山内溥【出生名は山内博】の生涯と名言

トランプをイメージしたイラスト




1927年

京都市で生まれ

幼年期に婿養子の父親である、山内鹿之丞(旧姓:稲葉)が、

なんと近所の女性と駆け落ちし、失踪してしまいます。




それにともない、

祖父母に育てられることになったことになった、

山内溥【出生名は山内博】は、

非常に恵まれた環境で育ちます。





その後、

早稲田大学法学部に進学する際に、

お金持ち、かつボンボン伝説が!




なんと、

祖父から、渋谷の一軒家をプレゼントされ、

暮らすようになるだけでなく、

友達を毎日のように呼んで、

豪勢な生活をしていたと言われています。





1947年

早稲田大学法学部在学中に、

花札やトランプを製造する会社であった、

合名会社山内任天堂の販売子会社であった

株式会社丸福かるた販売(現在の任天堂)の

設立時に取締役に就任することになります。





2年後の1949年、

大きな出来事が起こります。

祖父で二代目の山内 積良(やまうち せきりょう)が病気で倒れ、

急きょ、祖父の後を継がざるを得なくなり、

22歳の若さで、株式会社丸福かるた販売の代表取締役社長に就任。





その際に、

山内溥【出生名は山内博】が会社を継ぐにあたっての

条件を提示します。










その条件とは、

「任天堂で働く山内家の者は自分以外に必要ない」

という驚きの条件でした。




そのため、

前社長は会社にいた山内家の従兄弟達を会社から退けました。





「船頭多くして船山に登る」を意識していたのか?

いきなり豪快な手腕を発揮します。





1950年

大学を卒業





その後、

アイデアマンとして、

どんどん頭角を現し、

会社を大きくしていきます。





1953年

日本初のプラスチック製トランプを開発





1959年

ディズニートランプを発売

特に、このディズニートランプに関しては、

トランプと言えば、

当時は「博打の道具」という認識しかされていませんでしたが、




「ディズニーのキャラクターを絵柄に使う」




「遊び方の簡単な説明書を同梱する」


という当時としては、

今までになかった新しいやり方を取り入れたことにより、

トランプを子ども向けの遊びの道具というだけでなく、

家庭団欒のためのおもちゃとして

浸透させることに成功するのです。





それにより、

任天堂のトランプは爆発的に売れ、




1960年代前半には、

業界トップに躍り出るだけでなく、

山内溥【出生名は山内博】のアイデアで、

任天堂の業績をかつてないほど上げたことにより、

誰も社長に文句が言えない環境になっていきます。





愛称は組長!山内溥【出生名は山内博】の手腕で大躍進後の任天堂は?

ゲーム機のコントローラーのイラスト




1958年

アメリカ視察した際に、

トランプで、世界的に高いシェアを持つ

U.Sプレイング・カード社を視察します。

そこで、

山内溥【出生名は山内博】は、衝撃を受けることになります。




最大手であるにもかかわらず、

オフィスも工場も、

山内溥【出生名は山内博】がイメージしていたより、

小規模だったのです。。。




「トランプだけは小さい会社で終わってしまう」

ということを実感し、大きな衝撃を受け、

ここから、

多角経営の道に一気に舵を切るようになります。













1960年

親戚にタクシー会社の経営者がいたことから、

タクシー会社のダイヤ交通株式会社を設立





1961年

共同出資で三近食品を設立し、

当時インスタントラーメンを始めとするインスタント食品が登場し、

一般家庭に浸透し始めたという時代背景もあり、

お湯を入れるとご飯ができるインスタントライスを開発、販売したり、

ディズニーのキャラクターが描かれたふりかけなどを販売

するも、

ノウハウ不足などによりことごとく失敗。





さらに、

業績を牽引していたトランプブームが一段落付いた

1964年

任天堂は、一転倒産危機に直面することになり、





1965年

三近食品





1969年

ダイヤ交通株式会社

2社からの経営から手を引くことになります。





任天堂が苦境に陥っている状況のなか、

ここから一気に復活の狼煙を上げることになります。










1965年入社した横井軍平が暇つぶしで作っていた遊び道具を、





1966年、任天堂のオリジナル玩具1号の商品

「ウルトラハンド」として商品化させたところ大ヒットを記録。

10万個売れれば大成功といわれていた時代に、

なんと120万個以上を売る大ヒット商品となるのです。





勢いそのままに、

1968年

家庭用ピッチングマシン「ウルトラマシン」などを

アイデア玩具を次々と開発、販売





1967年には17億円であった売上高が2年後の1969年には、

なんと2倍の34億円にまで拡大します。

それに合わせて、

売上構成も大きく変化、

任天堂の売上の7割を占めていたカード類の割合は、

わずか3割に減少していきます。





その後、

第一次オイルショック時に、

再び倒産危機に直面するものの、












1980年

携帯型ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」が大ヒットとなる売り上げを記録。

なお、この「ゲーム&ウオッチ」は、

「ゲームボーイ」の原型となった携帯ゲーム機であり、

マリオやドンキーコングといった後に、

任天堂を代表することになるキャラクター達は、

この時期に生まれているのです。





1983年

「ファミリーコンピュータ」、通称「ファミコン」を発売して、

世界的な大ヒットを記録

任天堂は世界的な企業へと成長していきます。





その後も、勢いは止まらず、

1989年

携帯型ゲーム機「ゲームボーイ」を発売





1990年

ファミコンの後継機である「スーパーファミコン」を発売





1996年

「NINTENDO64」を発売

ゲーム業界のトップ企業として君臨することになりましたが、





1994年

ソニーから発売されたPlayStationが

爆発的ヒットを記録

やがて業界トップの座をソニーに譲る結果となり、

トップからの陥落することになります。





2002年

岩田聡に社長職を譲る際に、

「異業種には絶対手を出すな」と言い残したとされています。





2013年

肺炎のため京都市左京区の京都大学医学部附属病院にて、

85歳で亡くなりました。



なぜ愛称が組長?イチローとは?資産?山内溥【出生名は山内博】伝説

イチローが活躍していたことをイメージさせる、シアトルにあるセーフコ・フィールド野球場の写真




●山内溥【出生名は山内博】愛称がなぜ組長なのか?

率直な伝え方やコワモテの風貌から、

ネット上で「組長」の愛称で呼ばれることになったようです。





●イチローと山内溥【出生名は山内博】との関係は?

1992年

MLBのシアトル・マリナーズが経営危機に瀕し、

シアトルから移転される可能性が出てきた際に、

MLB球団をシアトルに留めるために、

山内がポケットマネーでマリナーズ運営会社の株式を購入し、

筆頭オーナーとなるのです。





イチローがMLB挑戦を表明した時には、

「何が何でも獲れ」と

厳命を下しています。





2005年

個人保有していた任天堂の株式5000株を

イチローの年間最多安打達成のお祝いとして贈呈しています。





●山内溥【出生名は山内博】の資産は?

運用資金の総額については、

当時の複数の関係者によると1000億円超に上ると言われています。





任天堂を世界的企業へ!山内溥【出生名は山内博】の名言と本

たくさんのゲーム機のイメージイラスト




・僕個人の意見を言うとね、およそ物事に100%ということはあり得ない。

 人間ですから。

 だから「99%駄目だ」ということは言えても

 「100%駄目だ」ということは言えないんですよ。

 人間ですから。

 そこで僕は100%駄目だと思った時、

 「あれは、99.99%駄目だ」と言っているんです。



・ヒット商品をつくる秘訣なんてない。

 ただいえることは、ある種の能力があって、

 ひたすら目的に向かってそればかり考え続けておれば、

 いつか花がひらくときがくる。

 気持ちを持続しておくことが大切。



・僕らみたいな仕事をしていると、いろいろ迷うんです。

 これしようとか、あれしようとか。

 ところが、あれしてもだめ、

 これしてもだめだということになっていくと、

 だんだん自分のやれる範囲が絞られてくる。

 だから、私は何も新しいものを求めていたんでも何でもなくて、

 考えていくうちに、もうこのへんしかないと。

 任天堂の行くところは、それしかないと思わざるを得なかったんです。

 消去法でいけばそうなるんです。






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・全くの新製品を作るためには、

 常識的な発想では人々を納得させることはできない。

 新製品に必要なのは、

 社会通念や習慣を変えるようなものでなければならない。

 そのためには非常識の発想が必要なんです。

 みんながこうするから自分もそうするなんていうのは論外です。

 我が道を行くという考え方、

 そのためには、他人に煩わされないで、

 自分の時間を多く持つことが大切だ。

 人と同じことをやっていたのでは、同じ考えしか出てこないんです。





・企業においては、確かに冒険精神は必要不可欠のものだが、

 なにも現在、小は小なりにうまく暮らせているものを、

 わざわざヤケドしに行くことはないという気持ちも、私にはあります。

 任天堂の場合、どこへ行っていいかわからなかった。

 だが、現実に何かしなければ会社がなくなってしまう。

 そういう危機意識が非常に強かったんです。





・いまソニーがゲームで成功したと言われています。

 でもそれは、たまたまいま成功しているだけで、

 ついこの間までは失敗していました。

 この業界でいま、最も強いと言われているソニーでさえ、

 成功と失敗を繰り返しています。明日は失敗するかもしれません。












・世間にはよく成功した人間を尊敬する人がいるけれど、

 それが僕には不思議でしようがない。

 たまたま運が良かっただけの人を、どうして尊敬できるんでしょうかね。





・時代が変化したんです。そのため止むを得ず転換を図った。

 それだけのことでしかない。

 それ以降、幾多の苦難を経ながら、ともかく生き延びてこられたのは、

 本当に運がよかったからだ。

 もっといえば、明確な経営戦略などがあったわけではなく、

 文字どおり試行錯誤の連続でその失敗の積み重ねの中から、

 少しずつ体で覚えて勉強し、それを材料として、

 たまたま幸運に恵まれて、昭和55年からようやく急成長の波に乗った。

 要するに、任天堂は運がよかっただけなんですよ。





・任天堂は大きく変身したといわれるけども、

 それはわたしたちが、時代の変化を予測したとか、

 会社を大きくしよう、

 もっと儲かる仕事をしようなどと思ってやったことではないんですよ。

 花札やトランプは、もうこれ以上伸びないことがわかった。

 それならばこれからどうするのか、いったいどうしていいのかがわからない。

 経営者にとってこれほど苦しいことはない。

 そういう時代が長く続きました。そうしたときにマイコン革命が始まった。

 いやでもその道を行くしかなかった。

 ひたすらその道を歩みつづけた結果、

 任天堂自身が変わっていかざるを得なくなった。それだけのことなんですよ。





・異業種には絶対手を出すな。





・ゲームソフトについては今後、

 売れるものと売れないものの差が歴然としてくる。

 毎年、多数のソフトが出回るが、ヒット作品の種類は減るだろう。

 ただ、売れ筋の製品の販売本数は落ち込むことはない。

 一番遊びたいと思うソフトは景気が悪くなっても

 懐が悪くなっても消費者は購入する。





ん~、心に響きますね。





山内溥【出生名は山内博】だけでなく、

任天堂をもっと詳しく知りたい方は、

本だけでなく、DVDもありますので、

ぜひ、ご覧ください。




任天堂 “驚き”を生む方程式




任天堂ノスタルジー 横井軍平とその時代 (角川新書)




見学!日本の大企業 任天堂




任天堂商法の秘密―いかにして”子ども心”を掴んだか (ノン・ブック)




任天堂・ガリバー商法の秘密






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まとめ

心が晴れ晴れとしたイメージをしたイラスト




山内溥【出生名は山内博】の生涯を振り返ってみましょう。




・1927年京都市で生まれ

 幼年期に父親が失踪し、

 祖父母に育てられる





・早稲田大学法学部に進学

 裕福な学生生活を送る





・1947年早稲田大学法学部在学中に、

 株式会社丸福かるた販売(現在の任天堂)の設立時に取締役に就任





・1949年

 22歳の若さで、株式会社丸福かるた販売の代表取締役社長に就任












・1953年

 日本初のプラスチック製トランプを開発





・1959年

 ディズニートランプを発売





・1964年

 一転倒産危機に直面することになる





・1966年、任天堂のオリジナル玩具1号の商品

「ウルトラハンド」として商品化させたところ大ヒットを記録





・1968年、家庭用ピッチングマシン「ウルトラマシン」などを

 アイデア玩具を次々と開発、販売

 1967年には17億円であった売上高が2年後の1969年には、

 なんと2倍の34億円にまで拡大












・第一次オイルショック時に、

 再び倒産危機に直面





・1980年

 携帯型ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」が大ヒットとなる売り上げを記録。





・1983年

「ファミリーコンピュータ」、通称「ファミコン」を発売して、

 世界的な大ヒットを記録し、

 任天堂は世界的な企業へと成長





・1989年

携帯型ゲーム機「ゲームボーイ」を発売





・1990年

ファミコンの後継機である「スーパーファミコン」を発売





・1996年

「NINTENDO64」を発売

 ゲーム業界のトップ企業として君臨





・1994年

ソニーから発売されたPlayStationが爆発的ヒットを記録し、

業界トップからの陥落



・2013年

 肺炎のため京都市左京区の京都大学医学部附属病院にて、

 85歳で亡くなりました。













山内溥【出生名は山内博】が残してくれた言葉、


・ヒット商品をつくる秘訣なんてない。

 ただいえることは、ある種の能力があって、

 ひたすら目的に向かってそればかり考え続けておれば、

 いつか花がひらくときがくる。

 気持ちを持続しておくことが大切。





2022年が没後95年とい節目





花札やトランプを製造する会社であった、

任天堂をトランプで会社を大きくし、

2度の倒産の危機をなんとか回避し、





その後、

「ゲームボーイ」や「ファミコン」で

世界的な企業へと成長させました。





成功に至る過程までには、

やはり時代の変化に合わせつつ、

なぜその商品やサービスを扱うのかなどの

目的を見失わずに、

気持ちを持続させ、

諦めず、

行動し続けることが大事であるということを

改めて、再認識させてくれる言葉でした。





あなたはどう感じましたか?





上手くいってるときも、

ピンチでどうしたらいいんだろうとブルーなときも、

歴史の先輩から学ぶ。

先輩たちの人生を参考にしながら、

明日から、

いやいや今から

自分たちも理想的で素敵な人生を送るために、

自分のペースの明るく・楽しく・元気よく

で、過ごしていきましょう。




次回は、


NHK大河ドラマ「どうする家康」松本潤熱演!徳川家康の生涯と名言


という話を紹介します。

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