日露戦争を勝利に導く!坂の上の雲でも登場!児玉源太郎の生涯と名言

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日本の軍隊による戦争をイメージした彫刻

 

総司令の大山 巌(おおやま いわお)元帥を補佐し、

東洋の小さな国であった日本が、あの大国ロシアを打ち負かし、

世界中を驚かせ、歴史的な戦争の結末を迎えることのできた、

立役者の1人、児玉源太郎の生涯と名言を紹介します。




1852年、周防国都濃郡徳山(現在の山口県周南市)に、

徳山藩の中級武士の長男して生まれ、

5歳の時に父親が亡くなり、

家が没収されるだけでなく、

家名が断絶となり、

生活が困窮するといった、苦労の連続となります。



こんな苦しい家庭状況でも、

児玉源太郎の母は家の名を汚さぬよう、

教育を怠りません。



これが、

児玉源太郎の基礎を作ってくれたと思います。




その後、児玉源太郎

すごいスピード出世をします。

その詳細はのちほど。




その後、

数々の戦争に参加し、活躍後、



1868年、陸軍に入隊。



陸軍入隊後は、

なんとあの西南戦争などにも参加し、活躍します。




その後も、順調に出世していき、

1885年、陸軍大学校では、

ドイツ陸軍で、有名な戦術家と称されたメッケルから

兵学に関する戦術をマンツーマンで学び、

才覚を高く評価されます。




その後、

1887年、陸軍大学校の校長に就任、



1891年、陸軍参謀長としてヨーロッパへ派遣され、

軍事教育を視察、

順調にキャリアを築いていった、

児玉源太郎。




1898年、台湾総督になり、

後藤新平という人物との二人三脚の政策により、

統治への抵抗運動をほぼ完全に抑え、

台湾を完全に掌握することに成功しました。

そんな状況下、

想定外のことが起こります。

その際に、児玉源太郎。

本当に、男気溢れる対応をします。

正解はのちほど。




日露戦争時、満州に渡った児玉源太郎、

4つの合戦では、

全体の決着にはつながらず、

のちに、バルチック艦隊と日本海軍が激突する、

「日本海海戦」の結果を待つこととなりますが、

総司令の大山 巌(おおやま いわお)元帥を補佐し、

日本軍の勝利に大きく貢献することになります。




そして、

日露戦争から1年後の

1906年、55歳で急逝し、

その生涯を閉じることとなりました。




日本という国がピンチな時に、

自分の立場だけを考えず、

男気溢れる対応をしてくれた人物、

児玉源太郎を分かりやすく解説させていただきました。

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尊敬を集める!児玉源太郎の生い立ちやその後の気になる展開はいかに

児玉源太郎が生まれた現在の山口県周南市のイメージ写真



1852年、周防国都濃郡徳山(現在の山口県周南市)に、

徳山藩の中級武士の長男して生まれます。

当時の徳山藩では、

開国か攘夷かで政論が盛んに行われるようになり、

その派閥争いの対立によって、

児玉源太郎が5歳の時に、

父親が亡くなってしまいます。

その後、苦労の連続となります。



家が没収されるだけでなく、家名が断絶となり、

生活が困窮します。



こんな苦しい家庭状況でも、

児玉源太郎の母は、

家の名を汚さぬよう、教育を怠りませんでした。



ここで、児玉源次郎一家にチャンスが訪れます。



徳山藩が倒幕派に傾き始めるのです。

これにより、

当初から攘夷を訴え、亡くなった父の名誉が回復されることにもつながり、

家名を断絶されてしまった、

翌年1865年に家名の再興を許され、

児玉源太郎は下級武士として25石を与えられ、



また、さらにその3ヶ月後に、

元々の中級武士となり、

100石へ戻されることとなるのです。




その後、

数々の戦争に参加し、活躍後、



1868年、陸軍に入隊。

陸軍入隊後は、西南戦争などにも参加し、活躍。




その後も、順調に出世していき、

1885年、陸軍大学校では、

ドイツ陸軍で、有名な戦術家と称されたメッケルから

兵学に関する戦術をマンツーマンで学び、

才覚を高く評価されます。



のちに、日露戦争開戦を聞いたメッケルは、

「日本に児玉将軍が居る限り心配は要らない。

 児玉は必ずロシアを破り、勝利を勝ち取るであろう」と

述べたと伝えられています。




その後、

1887年、陸軍大学校の校長に就任、



1891年、陸軍参謀長としてヨーロッパへ派遣され、

軍事教育を視察します。




順調にキャリアを築いていった、

児玉源太郎。

その後のどんな展開となるのか?

解説していきます。

 

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後藤新平を才能を見出し!大山巌を補佐!日露戦争の勝利に大きく貢献

日本とロシアの対立をイメージさせる国旗写真



1898年、日清戦争の結果、

清国から譲渡された台湾を統治するために設置された日本の出先官庁である、

台湾総督府の総督に就任します。

その際に、児玉源太郎が全面的に信頼し、

防疫事務で才能を見いだした

後藤新平を台湾総督府民政局長に任命します。



後藤新平は植民地統治への抵抗は徹底して鎮圧しつつ、

統治に従ったものには穏健な処遇を与えるという政策をとります。



児玉源太郎と後藤新平の二人三脚の政策により、

統治への抵抗運動をほぼ完全に抑えることに成功。

日本は台湾を完全に掌握することに成功します。



そういった状況下で、

満州や朝鮮を統治下にしようと、

ロシアが虎視眈々とタイミング狙っていたのです。

もし、朝鮮がロシアの統治下になれば、

日本は海の利権をとられてしまうだけでなく、

戦術的にも弱くなり、

日本もロシアの統治下になってしまう。。。



この考えは、日本政府の間では、共有され、

いつロシアとの戦争が起こってもいいようにと、

万全の体制を整えておきます。



こんな状況下、

想定外のことが起こってしまいます。




1903年、対露戦計画を立案し、

陸軍の至宝と言われていた、

陸軍参謀本部次長、田村 怡与造(たむら いよぞう)が、

急死してしまうのです。



焦る陸軍、代わりの人材を探します。

いろいろと探してみるものの、誰もが思いつく人物はただ1人、

児玉源太郎しかいませんでしたが、



当時の児玉源太郎の役職は、

前述した、台湾総督に加え、

内務大臣(現代でいうと、副総裁)も兼任していました。

簡単にいうと、すごく偉い人となっていたのです。



この人事案は、児玉源次郎側から見ると、

降格人事となってしまうのです。



果たして、児玉源次郎はどうするのか?



日本という国がピンチな時に、

自分の立場だけを考える場合ではないと、

なんと、内務大臣を辞め、

降格人事となる、参謀本部次長に就任するのです。



ちなみに、男気溢れる

児玉源太郎が降格人事とならないように、

関係者がキチント配慮しました。




その後、

満州軍総参謀長として満州に渡ります。




そして、

1904年、日露戦争が勃発します。

ロシア軍、15万8,000人、

日本軍、12万5,000人

両軍の主力がはじめて衝突した、

「遼陽会戦(りょうようかいせん)」から始まりました。




結果、日本軍はロシア軍を遼陽という場所から

撤退させることができましたが、

ロシア軍を壊滅させるという当初の目的は、失敗に終わります。




続いての戦いは、

「沙河会戦(さかかいせん)」

遼陽を占領した日本軍に対し、ロシア軍が態勢を立て直し、

衝突することとなります。

ともに大きな人的損害が出たことにより、

決着はつかず、こう着状態となります。




続いての戦いは、

「黒溝台会戦(こっこうだいかいせん)」

ロシア側の奇襲により始まり、

兵力差で劣勢だった日本軍は会戦当初は苦戦したものの、

なんとか押し返し、結果的には日本の辛勝に終わりました。




最後は、

「奉天会戦(ほうてんかいせん)」

両軍あわせて60万という、大兵力を繰り出して激突。

日本軍がなんとか辛勝しましたが、

日露戦争全体の決着にはつながらず、

のちに、バルチック艦隊と日本海軍が激突する、

「日本海海戦」の結果を待つことになります。




この大きな4つの合戦において、

総司令の大山 巌(おおやま いわお)元帥を補佐し、

のちの日本軍の勝利に大きく貢献することになったのです。




日露戦争後、陸軍参謀総長に就任。

そして、これからますます活躍すると思われた

日露戦争から1年後の

1906年、55歳で急逝し、

その生涯を閉じることとなりました。




現代では、

映画だけでなく、


1981年、TBSのテレビドラマ、『二百三高地』


1990年、NHK大河ドラマ、『翔ぶが如く』


2010年、NHKのスペシャルドラマ、『坂の上の雲』

にも取り上げられています。




また、児玉源太郎をもっと詳しく知りたい方は、

本がたくさん出版されてありますので、

ぜひ、読んで見てください。




児玉源太郎


台湾を目覚めさせた男 児玉源太郎


児玉源太郎 日露戦争における陸軍の頭脳





日本という国がピンチな時に、

自分の立場だけを考えず、男気溢れる対応をした、

そんな児玉源太郎が

残してくれた言葉とは?

調べてみました。

ぜひ、元気をいっぱいもらってください。

 

降格人事も受け入れ!日露戦争の勝利に大きく貢献!児玉源太郎の名言

児玉源太郎命をお祀りしている児玉神社の写真で明治の陸軍大将、勝利・英知・福運の神として崇敬を集めている神社



・第一線の状況に暗い参謀は、物の用に立たない。




・火をつけたら消さなゃならんぞ。




・初めから他人の助けを当てにするような人間は、決して成功せん。




・諸君はきのうの専門家であるかもしれん。しかしあすの専門家ではない。




ん~、心に響きますね。

 

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まとめ

児玉源太郎が乗船した軍艦のイメージ写真

 

児玉源太郎という人物は、

日本という国がピンチな時に、自分の立場だけを考えず、

男気溢れる対応をしてくれた人でした。




1852年、周防国都濃郡徳山(現在の山口県周南市)に、

徳山藩の中級武士の長男して生まれ、

5歳の時に、

父親が亡くなり、

家が没収されるだけでなく、家名が断絶となり、

生活が困窮するといった、

苦労の連続でしたね。




こんな苦しい家庭状況でも、

児玉源太郎の母は、家の名を汚さぬよう、

教育を怠りませんでした。



これが、

児玉源太郎の基礎を作ってくれたと思います。




その後、

家名の再興を許され、

児玉源太郎は下級武士として25石を与えられ、



さらにその3ヶ月後に、

元々の中級武士となり、

100石へ戻されることになりました。

すごいスピード出世でしたね。




その後、

数々の戦争に参加し、活躍後、



1868年、陸軍に入隊。

陸軍入隊後は、西南戦争などにも参加し、活躍。



その後も、順調に出世していき、



1885年、陸軍大学校では、

ドイツ陸軍で、有名な戦術家と称されたメッケルから

兵学に関する戦術をマンツーマンで学び、

才覚を高く評価され、




その後、

1887年、陸軍大学校の校長に就任、



1891年、陸軍参謀長としてヨーロッパへ派遣され、

軍事教育を視察、

順調にキャリアを築いていった、

児玉源太郎。




1898年、台湾総督になり、

後藤新平との二人三脚の政策により、

統治への抵抗運動をほぼ完全に抑え、

台湾を完全に掌握することに成功しました。




そんな状況下、

日本政府の間では、共有され、

いつロシアとの戦争が起こってもいいようにと、

万全の体制を整えていた状況下での、

想定外の出来事が起こりましたね。



覚えてますか?



そうです。

対露戦計画を立案し、

陸軍の至宝と言われていた、

陸軍参謀本部次長、田村 怡与造(たむら いよぞう)が

急死してしまいましたね。



その代わりの人材として、

誰もが思いついた唯一の人物、

それが、児玉源太郎でした。



ここに大きな障害が。

児玉源次郎側から見ると、

この人事案を受けるということは、

降格人事となってしまいます。

児玉源次郎はどうしたか、覚えてますか?



結果的には、降格人事となりませんでしたが、

日本という国がピンチな時に、

自分の立場だけを考える場合ではないと、

なんと、内務大臣(現代でいうと、副総裁)を辞め、

降格人事となる、参謀本部次長に就任しましたね。



本当に、男気溢れる対応が、

カッコいいです!!




その後、

満州軍総参謀長として満州に渡り、

日露戦争が勃発。

「遼陽会戦(りょうようかいせん)」

「沙河会戦(さかかいせん)」

「黒溝台会戦(こっこうだいかいせん)」

「奉天会戦(ほうてんかいせん)」



日露戦争時、

この大きな4つの合戦では、全体の決着にはつながらず、

のちに、バルチック艦隊と日本海軍が激突する、

「日本海海戦」の結果を待つこととなりますが、

総司令の大山 巌(おおやま いわお)元帥を補佐し、

のちの日本軍の勝利に大きく貢献することになりました。




そして、

日露戦争から1年後の

1906年、55歳で急逝し、

その生涯を閉じることとなりましたね。



そんな児玉源太郎が

残してくれた言葉で、

私が好きなのは、



初めから他人の助けを当てにするような人間は、決して成功せん。



「他力」ではなく「自力」、

「受動的」ではなく、「能動的」が大事だと、

改めて考えさせられる言葉だと思いました。

あなたは児玉源太郎のどの名言が好きですか?




上手くいってるときも、

ピンチでどうしたらいいんだろうとブルーなときも、

歴史の先輩から学ぶ。

先輩たちの人生を参考にしながら、

明日から、

いやいや今から

自分たちも理想的で素敵な人生を送るために、

自分のペースの明るく・楽しく・元気よく

で、過ごしていきましょう。



次回は、


関東大震災後の世界最大規模の帝都復興計画!後藤新平の生涯と名言!


という話を紹介します。

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