徳川家康にずっと仕え、
なんと!57戦●●の男
実はあの有名な方が、本多忠勝の子孫でした。
そんな、本多忠勝の生涯と名言を紹介します。
1548年、
徳川本家で最も古い家臣である本多氏の長男として、
三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市西蔵前町)で生まれ、
幼い頃から徳川家康に仕え、
1560年、13歳の時に初陣を果たし、
その後、
数々の戦に参戦します。
1563年、
三河の国で発生した一向一揆では、
多くの本多一族が、
つまり親戚一同が敵となる中で、
家康側について、勝利に貢献。
1566年、
19歳で旗本先手役に抜擢されて、
54騎を与えられました。
1570年、
織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍との戦いである、
「姉川の戦い」で、
すごい武勇伝が残されています。
正解はのちほど。
そして、1575年、
「長篠の戦い」などにも参戦し、活躍。
これらの度重なる合戦における、
本多忠勝の活躍は、敵味方を問わず賞賛され、
本多忠勝を合戦で見た、
織田信長からは、
「花も実も兼ね備えた武将である」と称えられ、
徳川家康からは「まことに我が家の良将なり」と
褒め称えられます。
そんな本多忠勝が使っていた武器は、
槍(やり)で、
「蜻蛉切(とんぼきり)」と
呼ばれていました。
その名称の逸話などはのちほど、
解説します。
その後、
1584年、羽柴秀吉(豊臣秀吉)陣営と、
織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた
「小牧・長久手の戦い」でも
すごい武勇伝が残されています。
正解はのちほど。
ちなみに、本多忠勝の戦いぶりを見た、
羽柴秀吉(豊臣秀吉)からは、
『日本第一、
古今独歩(昔から今まで他に並ぶものはいないという意味)の勇士。
東には、本多忠勝という天下無敵の大将がいる』と
称賛されたと伝えられています。
この称賛ぶりは、三国志で表現すると、
豪傑で有名な「張飛」に例えられる人物かもしれません。
1600年、
「関ヶ原の戦い」では、
もちろん、徳川家康側につき、
従来通り戦闘で大活躍するだけでなく、
徳川家康側につくように
工作活動でも活躍します。
これらの功績により、
1601年、
伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)10万石を与えられ、
本多忠勝は東海道宿場の整備などを行い、
桑名藩創設の名君として尊敬されました。
その後、1610年、
その桑名の地において、
63歳でその生涯を閉じることとなりました。
江戸幕府の創業に貢献したとされる「徳川四天王」の1人、
江戸幕府の創業に功績を残したとされる「徳川十六神将」の1人、
徳川家に特に貢献し功績が大きかったとされる「徳川三傑」の1人、
本多忠勝の活躍なくして、
江戸幕府の創業はなかったとも思える、
そんな、
本多忠勝の生涯を分かりやすく、
解説させていただきました。
目次
姉川の戦いで大活躍!戦国時代最強と噂される本多忠勝とはどんな人物
1548年、
徳川本家で最も古い家臣である本多氏の長男として、
三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市西蔵前町)で
生まれます。
1549年、
父親が戦死し、叔父のもとで育てられます。
幼い頃から徳川家康に仕え、
1560年、
13歳の時に初陣を果たします。
同年、桶狭間の戦いにて、今川義元が討ち取られると、
徳川家康は今川家から独立し、
織田信長との同盟を結びます。
その後、本多忠勝は、数々の戦に参戦。
特に、1563年、
三河の国で発生した一向一揆では、
多くの本多一族が、
つまり親戚一同が敵となる中で、
家康側について、勝利に貢献します。
1566年、
19歳で旗本先手役に抜擢されて、
54騎を与えられます。
1570年、
織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍との戦いである、
「姉川の戦い」に参戦。
徳川家康本陣に迫る朝倉軍1万に対して、
本多忠勝、
なんと、
1騎で敵陣に攻めるという無謀な戦い方を仕掛けます。
この戦いにおいて本田忠勝は、
朝倉軍の家臣で、北国の豪傑と有名であった、
真柄 直隆(まがら なおたか)と一騎討ちをして、
有名となります。
1572年、
「一言坂の戦い」では、
偵察隊として先発を務めると、
なんと、武田本隊と遭遇してしまいます。
この時、
不利な地形に陣を取る状況下でも奮闘し、
徳川家康率いる本隊を無事に逃します。
同年12月の「三方ヶ原の戦い」では、
武田軍に夜襲をかけ、
大混乱に陥らせるなどし、大活躍。
1573年には、
武田軍を破り、
長篠城を獲得し、その城を守り続けます。
そして、1575年、
「長篠の戦い」などにも参戦し、活躍。
これらの度重なる合戦における、
本多忠勝の活躍は、敵味方を問わず賞賛されます。
本多忠勝を合戦で見た、
織田信長からは、
『花も実も兼ね備えた武将である』と称えられ、
徳川家康からは『まことに我が家の良将なり』と
褒め称えられます。
そんな
本多忠勝が使っていた武器は槍(やり)!「蜻蛉切(とんぼきり)」と呼ばれた理由は
穂先に止まった蜻蛉(とんぼ)が、
なんと真っ二つになったという逸話から
この名が付いたと言われています。
さらに、
刃の長さが43.8cmとすごく大きな槍(やり)で、
しかも、当時の柄の長さは普通サイズで、
約4.5mでしたが、
蜻蛉切(とんぼきり)は、
なんと約6.0mだったことから、
この巨大な武器を簡単に扱っていた、
本多忠勝のパワーが
尋常ではないことが推測できますね。
そんな、最強の武将と名高い、
本多忠勝、
その後、どんな人生を歩んだのかを
解説していきます。
大河ドラマにも登場!蜻蛉切で有名な本多忠勝の戦績や大胆な戦い方!
1582年、
あの「本能寺の変」が起き、
徳川家康は信長の後を追って自害しようとすると、
本多忠勝がそれをとめます。
1584年、
羽柴秀吉(豊臣秀吉)陣営と、
織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた
「小牧・長久手の戦い」では、
羽柴秀吉(豊臣秀吉)16万の大軍の前に、
徳川軍が苦戦していると聞きつけると、
本多忠勝は
わずか500名の兵で駆けつけるだけでなく、
約500m先の
羽柴秀吉(豊臣秀吉)16万の大軍の前に立ちはだかり、
1人馬に乗り、目の前にあった川で、
悠々と馬の口を洗わせます。
この大胆な振舞いを見た、
羽柴秀吉(豊臣秀吉)16万の大軍は、
進撃をためらいます。
この豪快で、
豪胆な振舞いやこれまでの活躍などにより、
羽柴秀吉(豊臣秀吉)からは、
『日本第一、
古今独歩(昔から今まで他に並ぶものはいないという意味)の勇士。
東には、本多忠勝という天下無敵の大将がいる』と
称賛されたと伝えられています。
1600年、
「関ヶ原の戦い」では、
もちろん、徳川家康側につき、
従来通り戦闘で大活躍するだけでなく、
徳川家康側につくように
工作活動でも活躍します。
これらの功績により、
1601年、
伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)10万石を与えられ、
本多忠勝は東海道宿場の整備などを行い、
桑名藩創設の名君として尊敬されました。
1610年、
その桑名の地において、
63歳でその生涯を閉じることとなりました。
江戸幕府の創業に貢献したとされる「徳川四天王」の1人、
江戸幕府の創業に功績を残したとされる「徳川十六神将」の1人、
徳川家に特に貢献し功績が大きかったとされる「徳川三傑」の1人、
江戸幕府の創業に大きく貢献した
本多忠勝
本多忠勝が参戦した戦闘数は?
大小合わせて57戦、
いずれの戦いにおいて、
なんと、
かすり傷一つ負わなかったと伝えられているのが、
戦国最強を言われる所以となっています。
現代では、
・NHK大河ドラマ、塩野谷正幸出演、
2014年、『軍師官兵衛』
・藤岡弘出演、
2016年、『真田丸』
・高嶋政宏出演、
2017年、『おんな城主 直虎』
だけでなく、
ゲームでも、
戦国無双、モンスト、仁王など、
数々の作品にも取り上げられています。
また、本多忠勝をもっと詳しく知りたい方は、
本だけでなく、マンガもありますので、
ぜひ、ご覧ください。
戦国人物伝 本多忠勝 (コミック版 日本の歴史 53)
本多忠勝
本多平八郎忠勝 家康軍団最強の武将 (PHP文庫)
ふたりの本多 家康を支えた忠勝と正信 (新潮文庫)
本多忠勝 無傷の大槍 (戦国闘将伝)
戦国武将の意外な関係 たとえば、真田幸村と本多忠勝は親戚だった!? (PHP文庫)
徳川家康にずっと仕え、
57戦無傷の男、
本多忠勝、
そんな彼の名言とは?
調べてみました。
ぜひ、元気をいっぱいもらってください。
ちなみに、
本多忠勝の子孫とは?
楽天の三木谷浩史氏が、
なんと!
本多忠勝の子孫になります。
ビックリですね。
歴史上の人物で戦国時代最強と噂される本多忠勝、そんな男の名言とは
・侍は首を取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、
主君を枕と並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍という。
・槍(やり)は自分の力に合うものが一番。
・わが本多の家人は志からではなく、
見た目の形から武士の正道にはいるべし。
・思慮のない人も、思慮のある人も功名を立てる。
思慮のある人の功名は、士卒を下知して大きな功名をなしえる。
だが、思慮のない人は鎗一本の功名であって大きな事は出来ない。
ん~、心に響きますね。
まとめ
本多忠勝の生涯を
振り返ってみましょう。
1548年、
徳川本家で最も古い家臣である本多氏の長男として、
三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市西蔵前町)で生まれ、
1549年、
父親が戦死し、叔父のもとで育てられました。
幼い頃から徳川家康に仕え、
1560年、
13歳の時に初陣を果たし、
その後、
数々の戦に参戦、
1563年、
三河の国で発生した一向一揆では、
多くの本多一族が、
つまり親戚一同が敵となる中で、
家康側について、勝利に貢献。
1566年、
19歳で旗本先手役に抜擢されて、
54騎を与えられました。
1570年、
織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍との戦いである、
「姉川の戦い」での武勇伝、
覚えてますか?
徳川家康本陣に迫る朝倉軍1万に対して、
本多忠勝、
なんと、1騎で敵陣に攻めました。
1572年、
「一言坂の戦い」では、
偵察隊として先発を務めると、
なんと、
武田本隊と遭遇し、
不利な地形に陣を取る状況下でも、
奮闘し、
徳川家康率いる本隊を無事に逃しました。
そして、1575年、
「長篠の戦い」などにも参戦し、活躍。
これらの度重なる合戦における、
本多忠勝の活躍は、敵味方を問わず賞賛され、
本多忠勝を合戦で見た、
織田信長からは、
「花も実も兼ね備えた武将である」と称えられ、
徳川家康からは「まことに我が家の良将なり」と
褒め称えられました。
そんな本多忠勝が使っていた武器、
覚えてますか?
槍(やり)で、
「蜻蛉切(とんぼきり)」と
呼ばれていたものでした。
「蜻蛉切(とんぼきり)」と呼ばれた理由は、
穂先に止まった蜻蛉(とんぼ)が、
なんと真っ二つになったという逸話から
この名が付いたと言われました。
さらに、
刃の長さが43.8cmとすごく大きな槍(やり)で、
しかも、当時の柄の長さは普通サイズで、
約4.5mでしたが、
蜻蛉切(とんぼきり)は、
なんと約6.0mだったことから、
この巨大な武器を簡単に扱っていた、
本多忠勝のパワーが尋常ではないことが推測できました。
その後、1584年、
羽柴秀吉(豊臣秀吉)陣営と、
織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた、
「小牧・長久手の戦い」での武勇伝、
覚えてますか?
羽柴秀吉(豊臣秀吉)16万の大軍の前に、
徳川軍が苦戦していると聞きつけると、
本多忠勝はわずか500名の兵で駆けつけるだけでなく、
約500m先の
羽柴秀吉(豊臣秀吉)16万の大軍の前に立ちはだかり、
1人馬に乗り、目の前にあった川で、
悠々と馬の口を洗わせ、
この大胆な振舞いを見た羽柴秀吉(豊臣秀吉)16万の
大軍は、進撃をためらいましたね。
ちなみに、本多忠勝の戦いぶりを見た、
羽柴秀吉(豊臣秀吉)からは、
『日本第一、
古今独歩(昔から今まで他に並ぶものはいないという意味)の勇士。
東には、本多忠勝という天下無敵の大将がいる』と
称賛されたと伝えられています。
1600年、
「関ヶ原の戦い」では、
もちろん、徳川家康側につき、
従来通り戦闘で大活躍するだけでなく、
徳川家康側につくように
工作活動でも活躍しました。
これらの功績により、
1601年、
伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)10万石を与えられ、
本多忠勝は東海道宿場の整備などを行い、
桑名藩創設の名君として尊敬され、
9年後の1610年、
その桑名の地において、
63歳でその生涯を閉じることとなりました。
江戸幕府の創業に貢献したとされる「徳川四天王」の1人、
江戸幕府の創業に功績を残したとされる「徳川十六神将」の1人、
徳川家に特に貢献し功績が大きかったとされる「徳川三傑」の1人、
江戸幕府の創業に大きく貢献した
本多忠勝
人生で参戦した戦闘は大小合わせて57戦、
いずれの戦いにおいて、
なんと、かすり傷一つ負わなかったと伝えられているのが、
戦国最強を言われる所以となっているのでしょう。
本多忠勝が
残してくれた言葉で、
私が好きなのは、
・槍(やり)は自分の力に合うものが一番
現代風で考えると、
楽をしすぎず、
かといって、背伸びをしすぎず、
「自分の好きなこと」、
「楽しいと思う仕事」で、
自分にあった、
職場、仕事内容、能力、生き方に合わせていくことが、
「継続できるコツ」であると、
分かりやすく、端的に伝えてくれる言葉だと感じました。
皆さんは、どんな名言が好きで、どう感じましたか?
上手くいってるときも、
ピンチでどうしたらいいんだろうとブルーなときも、
歴史の先輩から学ぶ。
先輩たちの人生を参考にしながら、
明日から、
いやいや今から
自分たちも理想的で素敵な人生を送るために、
自分のペースの明るく・楽しく・元気よく
で、過ごしていきましょう。
次回は、
男気あふれるエピソードがいっぱい!イケメン白洲次郎の生涯と名言!
という話を紹介します。