学歴や功績は?どんなエピソードが?カリスマ!田中角栄の生涯と名言

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

田中角栄をイメージしたイラスト



お金と女性に関するスキャンダルな情報が首相退陣の引き金となった、

田中角栄。

政治家になった経緯や今でも使える、

人心掌握術に長けた2つのエピソートと名言を紹介します。




1918年、

新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現在の新潟県柏崎市)に、

田中角次の次男として生まれ、

田中角栄が小さい頃に、

父親がコイ養魚業、種牛の輸入業を立ち上げるも

相次いで失敗し、家産が傾き、

極貧下の生活を余儀なくされます。




1937年、

独立して、共栄建築事務所を設立。




1939年、

入営し、満州国にて兵役に就くものの、




1940年、

病気になり、治療のため日本に戻り、




1941年、

治癒後、除隊し、

東京の飯田橋で田中建築事務所を開設します。




翌年の1942年、

土木建築業者であり、借りている事務所の家主の娘である

坂本はなと結婚、その事業も受け継ぐことになり、




1943年、

事務所の組織などを変更し、田中土建工業を設立、




1944年、

長女眞紀子が誕生。




ここからの波乱万丈の政治家に向けての活動がスタートします。




1946年、

進歩党公認として、生まれ故郷の新潟で立候補、



1972年、

佐藤派から81人の議員を引き連れ、田中派を結成後、

同年6月、『日本列島改造論』を発表、

同年7月、 佐藤栄作が支持した福田赳夫を破り自由民主党総裁に当選後、 

第1次田中内閣が発足。

ここで、田中角栄が「初」を2つ達成します。

正解はのちほど。




また、各種機関の内閣支持率調査で70%前後の支持を集めるなど、

驚異的な人気を博しましたが、




1974年10月、 

月刊誌『文藝春秋』(1974年11月号)が、

立花隆「田中角栄研究」、児玉隆也「淋しき越山会の女王」を掲載し、

田中角栄のお金と女性に関するスキャンダルな情報により、

首相退陣の引き金となり、

同年12月、 田中内閣は総辞職、

首相在職通算日数は886日となりました。




首相退陣後は、

1976年2月、

ロッキード事件で逮捕され、

逮捕時に自民党を離党し、以後無所属になります。




1993年12月、

肺炎のため75歳でその生涯を閉じることとなりました。




人心掌握術に長け、

日本の基礎を築いてくれた1人である、

田中角栄を分かりやすく解説させていただきました。




なお、人心掌握術に長けた2つのエピソートは、

のちほど、紹介します。

<スポンサーリンク>

 

学歴や功績は?どんなエピソードが?娘は?【田中角栄はどんな人物】

田中角栄が生まれた新潟県柏崎市のイメージ写真



1918年、

新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現在の新潟県柏崎市)に、

田中角次の次男として生まれます。


田中家は農家でしたが、

父親は牛や馬の仲買人である牛馬商を、

祖父は宮大工をしていたようです

田中角栄が小さい頃に、

父親がコイ養魚業、種牛の輸入業を立ち上げるも

相次いで失敗し、家産が傾き、極貧下の生活を余儀なくされます。




また、幼い頃、病気の後遺症で、

言葉が円滑に話せない、スムーズに言葉が出てこない 

吃音症(きつおんしょう)を患うも、

浪花節を練習して矯正します。




1933年、

二田高等小学校(現在の新潟県柏崎市立二田小学校)を卒業。

卒業後、田中角栄は、土木工事の現場で働くも、1ヶ月で辞め、

その後、柏崎市の県土木派遣所に勤めます。




1934年、

「理研コンツェルンの大河内正敏が、

 書生(住み込みで雑用等を任せる人のこと)として採用する」という

話が持ち込まれ、

それを機に東京に上京します。




東京に上京し、訪ねてみると、

なんと、書生(住み込みで雑用等を任せる人のこと)の話が

通ってなかったのです。




困った、田中角栄は、

やむなく、井上工業という会社に住み込みで働きながら、

東京の神田にあった、中央工学校土木科の夜間部に通います。




その後、保険業界専門誌の記者や貿易商会の配送員といった仕事を経験します。




1936年、

中央工学校土木科を卒業後、建築事務所に勤めるようになりますが、

この事務所の経営者が軍に徴集されることになったため、




1937年、

独立して「共栄建築事務所」を設立します。

この独立と前後して、日比谷のとあるビルで、

あの理化学研究所の大河内正敏と偶然エレベータに乗り合わせたことから

チャンスを得て、

理研コンツェルンからの仕事を多数引き受けることになります。




1938年、

徴兵適齢のた徴兵検査を受け、合格。

陸軍の入営が通知されます。




1939年、

入営し、満州国にて兵役に就くも、




1940年、

病気になり、治療のため日本に戻ります。




1941年、

治癒後、除隊し、

東京の飯田橋で田中建築事務所を開設します。




翌年の1942年、

土木建築業者であり、借りている事務所の家主の娘である

坂本はなと結婚、その事業も受け継ぐことになります。




1943年、

事務所の組織などを変更し、田中土建工業を設立します。

その後、理研コンツェルンとの仕事が復活するなどして、

年間施工実績で全国50位入りするまでに大きく発展します。




1944年、

長女眞紀子が誕生。




1945年、

理化学興業(現在の株式会社リケン)の工場を移設する工事のため、

朝鮮半島に渡ります。

敗戦が決定後の8月下旬に朝鮮半島からなんとか引き揚げるだけでなく、

田中土建工業は空爆などの戦災から免れます。




波乱万丈の田中角栄。

その後の展開は?

解説していきます。

 

<スポンサーリンク>

どんなエピソードが?総理大臣まで上りつめた!田中角栄の手腕と功績

総理大臣まで上りつめた田中角栄が何度も通った国会議事堂のイメージ写真



1945年、

戦争中より田中土建工業の顧問だった、

進歩党代議士の大麻 唯男(おおあさ ただお)からの要請で

献金を行ったことをきっかけに、

大麻 唯男(おおあさ ただお)からの依頼により、




1946年、

進歩党公認として、生まれ故郷の新潟で立候補するも、

有力者に与えた選挙資金を流用されたり、

また見込んでいた支援者が、なんと立候補するといった誤算もあり、

定数8名に対して、

37人が立候補し、結果は11位で落選してしまいます。




1947年4月、

日本国憲法による最初の総選挙となった第23回総選挙において、

進歩党が改組した民主党公認で立候補し、

12人中3位の票を獲得し、当選します。




ここで、歴史が動きます。

所属していた民主党は、

日本社会党・国民協同党の3党連立による与党となりましたが、




1947年、

炭鉱を国家管理する臨時石炭鉱業管理法が提出されると、

田中角栄は本会議で他の14名とともに反対票を投じ、離党勧告を受けます。

同様の理由で除名・離党した民主党議員とともに結成された、

同志クラブ(のち民主クラブ)に所属します。




1948年、

民主クラブは、吉田茂を党首とする日本自由党と一緒になり、

民主自由党となります。

政党再編により、

田中角栄は、

吉田茂を近くで見て、勉強することができただけでなく、

「選挙部長」という役を任されることになります。




同年10月、

芦田内閣が、食糧増産政策に関して、

政府金融機関であった復興金融金庫と肥料メーカー昭和電工との間の

20億円にわたる財政資金をめぐる贈収賄容疑による昭和電工事件によって

総辞職することになります。

後継首相として野党第一党党首であった吉田茂が浮上し、

第2次吉田内閣が発足します。

この新内閣で田中角栄は、法務政務次官に就任します。




まもなく、1年前に田中角栄が民主党を離党するきっかけとなった、

炭鉱国家管理法案をめぐって炭鉱主側が反対議員に贈賄したとされる疑惑が

表面化し、田中角栄の自宅、会社である田中土建工業が東京高等検察庁に

家宅捜索されます。




その後、田中角栄は逮捕され、東京拘置所に収監されます。

田中角栄は、

受け取った金銭はあくまで相手からの請負代金であり、

贈収賄ではないと主張します。




その直後の同年、12月23日に衆議院は解散し、

第24回総選挙が実施されることとなります。




この選挙に田中角栄はなんと、獄中から立候補します。

政治資金も底をつきかけるだけでなく、

1949年1月13日に保釈されたものの、

わずか10日間の選挙活動しかできない状態となります。

そして、1月23日に選挙が行われ、

結果はなんと2位となり、再選を果たします。




再選後の田中角栄は、国会で衆議院建設委員会に所属し、

生活インフラ整備と国土開発を主なテーマとして活動します。

田中角栄が提案者として関わった議員立法は、

33本にも及びます。




その後、1950年、

民主自由党は、自由党という名前となり、




1954年、

田中角栄は、自由党副幹事長に就任し、

「吉田十三人衆」と呼ばれる側近の1人として注目されるようになります。




その後は、どんどん出世します。




1957年、

 第1次岸信介改造内閣で郵政大臣に就任し、

戦後初めて30歳代での国務大臣に就任します。




1965年、

自由民主党幹事長に就任、




1971年、

 第3次佐藤栄作内閣の改造で通商産業大臣に就任、




1972年、

 佐藤派から81人の議員を引き連れ、田中派を結成。




同年6月、『日本列島改造論』を発表、




同年7月、

佐藤栄作が支持した福田赳夫を破り自由民主党総裁に当選後、

 第1次田中内閣が発足。

初の大正生まれの首相であり、

また、史上初の新潟県出身の首相となります。

各種機関の内閣支持率調査で70%前後の支持を集めるなど、

驚異的な人気を博します




同年9、日中国交正常化が実現し、




同年12月、第33回総選挙後、第2次田中内閣発足




1973年、

地価や物価の急上昇が社会問題化、




同年12月、

物価や地価上昇など経済失政への批判が高まる中、

1974年頭に行われた各社世論調査で、

内閣支持率が軒並み20%を割るようになリます。




1974年10月、 

月刊誌『文藝春秋』(1974年11月号)が、

立花隆「田中角栄研究」、児玉隆也「淋しき越山会の女王」を掲載し、

田中角栄のお金と女性に関するスキャンダルな情報により、

首相退陣の引き金となります。




同年12月、 田中内閣は総辞職します。

首相在職通算日数は886日となりました。




首相退陣後は、

1976年2月、

ロッキード事件で逮捕され、

逮捕時に自民党を離党し、以後無所属になります。




同年8月、保釈されるなどし、




1993年12月、

肺炎のため75歳でその生涯を閉じることとなりました。




人心掌握術に長けていた、

田中角栄の2つのエピソードを最後に紹介します。



・冠婚葬祭時の心得と行動

「祝い事は遅れてもいい。ただし葬式には真っ先に駆けつけろ。

 人が悲しんでいる時に寄り添ってやることが大事なんだ」といい、

葬儀場に真っ先に駆けつけて人目もはばからず涙し、

故人をしのんだと言われています。

そして、葬儀から1週間が過ぎたあたりに、

 「花が枯れるころ、遺族の悲しみが募るもんだ」といい、

新しい花を贈っていたそう。




・プライドの高い官僚を味方にする方法

官僚をうまく使ったことで有名な田中角栄は、

どんな手法をとっていたのか?

なんと、課長以上の全公務員の本人の誕生日だけでなく、

結婚記念日、

さらに、子どもの誕生日まで把握しており、

イベントごとには必ずプレゼントを贈り、

信頼関係を築いていたようです。

また、プライドの高い官僚たちにキチンと働いてもらうためには、

手柄は官僚に与え、失敗はこちらがかぶる。

そして、人によってえこひいきするだけでなく、

名指しで批判はしない。

また、叱るときはみんながいないところで2人で行い、

褒めるときは大勢の前で褒めることを実践していたようです。



今でも参考になる話ですね。




現代では、

●テレビ

・2012年 NHK 橋本一郎出演、

「負けて、勝つ ~戦後を創った男・吉田茂~」




・2016年 NHKスペシャル 石橋凌主演、

「未解決事件 File.05 ロッキード事件」




・2020年

テレビ東京開局55周年特別企画スペシャルドラマ

前野朋哉主演、

「アメリカに負けなかった男~バカヤロー総理 吉田茂~」




●なんと、写真集まであります。

・1985年、

 集英社

 山本皓一撮影、




など、

数々の作品にも取り上げられています。



また、田中角栄をもっと詳しく知りたい方は、

本だけでなく、オーディオブックもありますので、

ぜひ、ご覧ください。





田中角栄 100の言葉 ~日本人に贈る人生と仕事の心得


人を動かす天才 田中角栄の人間力 (小学館文庫プレジデントセレクト)


田中角栄の金言: 戦後最高峰のリーダーに学ぶ人心掌握術 (DIA Collection)


大宰相 田中角栄 ロッキード裁判は無罪だった (講談社+α文庫)


田中角栄 心をつかむ3分間スピーチ





そんな田中角栄が

残してくれた言葉とは?

調べてみました。

ぜひ、元気をいっぱいもらってください。

 


功績は高度経済成長を実現!総理大臣まで上りつめた!田中角栄の名言

総理大臣まで上りつめた田中角栄の名言を知って心が晴れ晴れとしたイメージ写真



・俺の目標は、年寄りも孫も一緒に、

 楽しく暮らせる世の中をつくることなんだ。





・私が田中角栄であります。

 皆さんもご存じの通り、高等小学校卒業であります。

 皆さんは全国から集まった天下の秀才で、金融、財政の専門家ばかりだ。

 かく申す小生は素人ではありますが、

 トゲの多い門松をたくさんくぐってきており、

 いささか仕事のコツは知っているつもりであります。

 これから一緒に国家のために仕事をしていくことになりますが、

 お互いが信頼し合うことが大切だと思います。

 従って、今日ただ今から、大臣室の扉はいつでも開けておく。

 我と思わん者は、今年入省した若手諸君も遠慮なく大臣室に来てください。

 そして、何でも言ってほしい。上司の許可を取る必要はありません。

 できることはやる。できないことはやらない。

 しかし、すべての責任はこの田中角栄が背負う。

 以上。





・人間は、やっぱり出来損ないだ。みんな失敗もする。

 その出来損ないの人間そのままを愛せるかどうかなんだ。

 政治家を志す人間は、人を愛さなきゃダメだ。

 東大を出た頭のいい奴はみんな、あるべき姿を愛そうとするから、

 現実の人間を軽蔑してしまう。それが大衆軽視につながる。

 それではダメなんだ。

 そこの八百屋のおっちゃん、おばちゃん、

 その人たちをそのままで愛さなきゃならない。

 そこにしか政治はないんだ。政治の原点はそこにあるんだ。





・念仏を百万遍唱えても実行、実現しなければ意味が無い。





・田中の列島改造論はありゃダメだという人がいる。

 ダメだというのならほかにいい案を出しなさい。





・寝言を言ったり不満ばかり言っている奴は、

 人生終わるまで 不満を抱き続ける人間になるぞ。





・私が大切にしているのは、何よりも人との接し方だ。

 戦術や戦略じゃない。

 会って話をしていて安心感があるとか、自分のためになるとか、

 そういうことが人と人とを結びつける。





・初めに結論を言え。理由は、三つに限定しろ。

 分かったようなことを言うな。気の利いたことを言うな。

 そんなものは聞いている者は一発で見抜く。

 借り物でない自分の言葉で、全力で話せ。

 そうすれば、初めて人が聞く耳を持ってくれる。





・世の中は、白と黒ばかりでは無い。敵と味方ばかりでもない。

 その真ん中にグレーゾーン(中間地帯)があり、これが一番広い。

 そこを取り込めなくてどうする。

 天下というものは、このグレーゾーンを味方につけなれば、決して取れない。

 真理は常に中間にありだ。このことを知ることが大事だ。





・困難な問題を解決するのは国民全体が考えて、三人寄れば文殊の知恵、

 1億も寄って日本の地価問題が解決できないはずはありません。





・皆、僕のことを逆境に強いと言うが、必ずしもそうでない。

 ただ、逃げ出すことはしないということだ。

 じっとしていて、吹雪のときはしばし待つ。

 雪は人間を全部、運命論者に変える。





・功は焦らなくても良い。自分に実力がありさえすれば、運は必ず回って来る。





・いやなことは、その日のうちに忘れろ。

 自分でどうにもならんのにクヨクヨするのは阿呆だ。





・どんな境遇におかれて辛い思いをしても、天も地も人も恨まない。





・時間の守れん人間は、何をやってもダメだ。





・政治とは自分たちがメシが食えない。子供を大学にやれない状態から

 抜け出すことを先決に考えねばならん。

 理想よりも現実だ。政治とは何か。生活である。





ん~、心に響きますね。

 

<スポンサーリンク>

まとめ

高速道路のジャンクションを見て、高度経済成長を実現した田中角栄の功績を回想しているイメージ写真



人心掌握術に長け、

日本の基礎を築いてくれた1人である、

田中角栄の生涯を振り返ってみましょう。




1918年、新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現在の新潟県柏崎市)に、

田中角次の次男として生まれ、

田中角栄が小さい頃に、

父親がコイ養魚業、種牛の輸入業を立ち上げるも

相次いで失敗し、家産が傾き、

極貧下の生活を余儀なくされました。




1933年、二田高等小学校(現在の新潟県柏崎市立二田小学校)を卒業後、

土木工事の現場で働くも、1ヶ月で辞め、

その後、柏崎市の県土木派遣所に勤めました。




1934年、

「理研コンツェルンの大河内正敏が、

 書生(住み込みで雑用等を任せる人のこと)として採用する」という

話が持ち込まれ、

それを機に東京に上京するも、

その話が通っていない状況となり、




困った、田中角栄は、

やむなく、井上工業という会社に住み込みで働きながら、

東京の神田にあった、中央工学校土木科の夜間部に通いました。




その後、保険業界専門誌の記者や貿易商会の配送員といった仕事を経験、




1936年、中央工学校土木科を卒業後、

建築事務所に勤めるようになりますが、

この事務所の経営者が軍に徴集されることになったため、




1937年、

独立して、共栄建築事務所を設立しました。

この独立と前後して、日比谷のとあるビルで、

あの理化学研究所の大河内正敏と偶然エレベータに乗り合わせたことから

チャンスを得て、

理研コンツェルンからの仕事を多数引き受けることになりました。




1938年、

徴兵適齢のた徴兵検査を受け、合格。

陸軍の入営が通知されます。




1939年、

入営し、満州国にて兵役に就くものの、




1940年、

病気になり、治療のため日本に戻り、




1941年、

治癒後、除隊し、

東京の飯田橋で田中建築事務所を開設しました。




翌年の1942年、

土木建築業者であり、借りている事務所の家主の娘である

坂本はなと結婚、その事業も受け継ぐことになり、




1943年、事務所の組織などを変更し、田中土建工業を設立、

その後、理研コンツェルンとの仕事が復活するなどして、

年間施工実績で全国50位入りするまでに大きく発展しました。



本当にすごいですね!




1944年、

長女眞紀子が誕生。




1945年、

理化学興業(現在の株式会社リケン)の工場を移設する工事のため、

朝鮮半島に渡るも、

敗戦が決定後の8月下旬に朝鮮半島からなんとか引き揚げるだけでなく、

田中土建工業は空爆などの戦災から免れます。




その後の田中角栄の波乱万丈の展開、覚えていますか?




1945年、

戦争中より田中土建工業の顧問だった、

進歩党代議士の大麻 唯男(おおあさ ただお)からの要請で

献金を行ったことをきっかけに、

大麻 唯男(おおあさ ただお)からの依頼により、




1946年、

進歩党公認として、生まれ故郷の新潟で立候補するも、

まさかの落選、




1947年4月、

日本国憲法による最初の総選挙となった第23回総選挙において、

進歩党が改組した民主党公認で立候補し、

12人中3位の票を獲得し、当選します。




ここで、歴史が動きます。




所属していた民主党は、

日本社会党・国民協同党の3党連立による与党となりましたが、




1947年、

炭鉱を国家管理する臨時石炭鉱業管理法が提出されると、

田中角栄は本会議で他の14名とともに反対票を投じ、離党勧告を受け、

同様の理由で除名・離党した民主党議員とともに結成された、

同志クラブ(のち民主クラブ)に所属しました。




1948年、

民主クラブは、吉田茂を党首とする日本自由党と一緒になり、

民主自由党となります。

政党再編により、

田中角栄は、

吉田茂を近くで見て、勉強することができただけでなく、

「選挙部長」という役を任されることになりました。




同年10月、

芦田内閣が、食糧増産政策に関して、

政府金融機関であった復興金融金庫と肥料メーカー昭和電工との間の

20億円にわたる財政資金をめぐる贈収賄容疑による昭和電工事件によって

総辞職することになり、

後継首相として野党第一党党首であった吉田茂が浮上し、

第2次吉田内閣が発足します。

この新内閣で田中角栄は、法務政務次官に就任しました。




まもなく、1年前に田中角栄が民主党を離党するきっかけとなった、

炭鉱国家管理法案をめぐって炭鉱主側が反対議員に贈賄したとされる疑惑が

表面化し、田中角栄の自宅、会社である田中土建工業が東京高等検察庁に

家宅捜索され、

その後、田中角栄は逮捕され、東京拘置所に収監されます。




田中角栄は、

受け取った金銭はあくまで相手からの請負代金であり、

贈収賄ではないと主張しました。




その直後の同年、12月23日に衆議院は解散し、

第24回総選挙が実施されることとなりました。




この選挙に田中角栄はなんと、獄中から立候補。

政治資金も底をつきかけるだけでなく、

1949年1月13日に保釈されたものの、

わずか10日間の選挙活動しかできない状態となりますが、

選挙結果はなんと2位となり、再選を果たしました。




再選後の田中角栄は、国会で衆議院建設委員会に所属し、

生活インフラ整備と国土開発を主なテーマとして活動します。




田中角栄が提案者として関わった議員立法は、

33本にも及びます。




その後、1950年、

民主自由党は、自由党という名前となり、




1954年、

田中角栄は、自由党副幹事長に就任し、

「吉田十三人衆」と呼ばれる側近の1人として注目されるようになりました。



その後は、どんどん出世、



1972年、

 佐藤派から81人の議員を引き連れ、田中派を結成後、




同年6月、『日本列島改造論』を発表、




同年7月、

佐藤栄作が支持した福田赳夫を破り自由民主党総裁に当選後、 

第1次田中内閣が発足。



初の大正生まれの首相であり、

また、史上初の新潟県出身の首相となりました。

さらに、各種機関の内閣支持率調査で70%前後の支持を集めるなど、

驚異的な人気を博しましたが、




1974年10月、

 月刊誌『文藝春秋』(1974年11月号)が、

立花隆「田中角栄研究」、児玉隆也「淋しき越山会の女王」を掲載し、

田中角栄のお金と女性に関するスキャンダルな情報により、

首相退陣の引き金となり、

同年12月、 田中内閣は総辞職、

首相在職通算日数は886日となりました。




首相退陣後は、

1976年2月、

ロッキード事件で逮捕され、

逮捕時に自民党を離党し、以後無所属になります。




同年8月、保釈されるなどし、




1993年12月、

肺炎のため75歳でその生涯を閉じることとなりました。




そんな田中角栄が

残してくれた言葉で、

自分が好きなのは、



・いやなことは、その日のうちに忘れろ。自分でどうにもならんのにクヨクヨするのは阿呆だ。



若い頃、自分のイメージ通りの結果が出せないだけでなく、

部下を上手くマネージメントできなかったりして、

悩んでいたときに、

タイトルは忘れてしまいましたが(笑)、

たまたま読んだ本に勇気をもらいました。



その本には、

『悩み』を

「自分で変えられるもの」、

「自分で変えられないもの」に分けて、

他人の気持ちや行動など、

「自分で変えられないもの」にフォーカスを当てず、

自分の他人への捉え方や接し方、また考え方など、

「自分で変えられるもの」にフォーカスすることにより、

人生は今よりも良くなり、道が切り開けると!






上手くいってるときも、

ピンチでどうしたらいいんだろうとブルーなときも、

歴史の先輩から学ぶ。

先輩たちの人生を参考にしながら、

明日から、

いやいや今から

自分たちも理想的で素敵な人生を送るために、

自分のペースの明るく・楽しく・元気よく

で、過ごしていきましょう。




次回は、


大河ドラマ!漂流記!モンスト!英語堪能!ジョン万次郎の生涯と名言


という話を紹介します。

<スポンサーリンク>

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*