雷を切る逸話!愛刀雷切とは!信長の野望にも!立花道雪の生涯と名言

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立花道雪をイメージしたシルエット



主君、

大友 宗麟( おおとも そうりん)にずっと仕え、


大きい戦いは●●戦、

小さな戦いは●●●戦を超え、

自ら総大将となった戦いは、

なんとほぼ無敗の戦績で、

「●●」として誉めたたえられた、

立花 道雪(たちばな どうせつ)の

生涯と名言を紹介します。









 

雷を切る!愛刀雷切とは!立花道雪とはどんな人物で何の逸話が有名?

戦国時代、立花道雪の主君である大友宗麟が築いた臼杵城の跡地写真



立花 道雪(たちばな どうせつ)は、

1513年、大友家の一族で、

豊大野郷藤北(現在の大分県豊後大野市大野町)の

鎧岳(よろいだけじょう)城主、

戸次親家(べっき ちかいえ)の

次男として生まれます。




立花 道雪(たちばな どうせつ)の兄は

早世したため嫡男となるだけでなく、

幼くして母親を亡くし、

父も病気がちであったため、

代わりに、

父の後妻によって育てられます。






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立花 道雪(たちばな どうせつ)の初陣

14歳の時、

自ら志願し、武功の老臣3人と

2,000人の兵を預けられ初陣します。




兵力5,000人いる

大内領の豊前馬ヶ岳城(現在の福岡県行橋市)に攻め入り、

兵力的には劣っていましたが、

この兵力差で、

なんと初勝利を挙げます。




その直後の1526年、

父親の死にともない、

家督を相続します。




その後、1535年

肥後国人の反乱の際には、

肥後国(現在の熊本県)に出陣して、

乱を鎮圧。




1546年

秋月文種の謀反の際には、

主人の大友 義鑑(おおとも よしあき)の命令を受け、

佐伯 惟教(さえき これのり)、

臼杵 鑑速(うすき あきはや)、

吉弘 鑑理(よしひろ あきただ)など

大友諸将とともに、

筑前古処山城(現在の福岡県朝倉市野鳥)へ出陣、

この乱も鎮圧します。












その後は、

大友氏の重臣として活躍し、

特に筑前国や豊前国の侵攻を狙っていた

毛利氏との戦いに

費やすこととなります。




1557年

筑前や豊前の侵攻を狙っていた

毛利 元就(もうり もとなり)と通じていた

秋月 文種(あきづき ふみたけ)を自害に追い込み、




また、

豊前に出陣して、門司城などの地で

毛利 元就(もうり もとなり)の軍勢と

戦った功績から、




1561年、

大友 宗麟( おおとも そうりん)の

補佐役などに任命されます。












その後も戦いは続き、

1563年

室町幕府第13代将軍

足利義輝の仲介により、

休戦しますが、

休戦は一時的で、




1567年

かつて立花 道雪(たちばな どうせつ)が

自害に追い込んだ、

秋月 文種(あきづき ふみたけ)の

子・秋月 種実(あきづき たねざね)が、

毛利氏の援助を得て

ひそかに筑前国に入り、

秋月氏再興の兵を起こすだけでなく、




なんと、

味方である大友氏の重臣、

高橋 鑑種(たかはし あきたね)が

裏切りを起こします。












こうした動きに対して、

立花 道雪(たちばな どうせつ)の

主人である大友 宗麟( おおとも そうりん)は、

立花 道雪(たちばな どうせつ)に

高橋氏、秋月氏討伐を命じます。




立花 道雪(たちばな どうせつ)は出陣、

自ら陣頭に立ち、騎馬で敵陣に乗り込み、

敵の武将7人を斬り倒すだけでなく、

立花 道雪(たちばな どうせつ)の

武力だけでない、

戦のプロとしてのエピソードが

伝えられています。










立花 道雪(たちばな どうせつ)の武力だけでない!戦のプロとしてのエピソード

毛利軍、秋月 種実(あきづき たねざね)が

自分の陣を強襲すると察知すると、

兵を近くに隠しておきます。




兵がいるように見せるために、

囮の旗を立てて、息を潜んで待機。

何も知らない、

秋月 種実(あきづき たねざね)を

空の陣に誘い込み、

見事撃退します。




秋月 種実(あきづき たねざね)が、

今度は

夜襲をかけてくると察知すると、

兵に鎧を脱がせず、

いつでも戦える体制で待機させます。




秋月 種実(あきづき たねざね)が

予想通り夜襲をかけてきました。




ところが、夜襲により、

味方が混乱、同士討ちを始めてしまいます。

立花 道雪(たちばな どうせつ)は、


冷静にこれに対処しますが、

この混乱により

数名の親戚を失ってしまいました。




このように、

大友方の苦戦を目の当たりにした筑前国の武将たちは、

離反者が相次ぎ、

毛利方の味方になっていきます。













このピンチに、

立花 道雪(たちばな どうせつ)が

数々の激戦に奮闘し、勝利を勝ち取り、

筑前国の反大友勢力を一掃します。




その後、

度重なる戦い続きますが、

立花 道雪(たちばな どうせつ)の

主人である、大友 宗麟( おおとも そうりん)が、

毛利 元就(もうり もとなり)に滅ぼされた

大内家に乱を起させたりする策などを講じて、

毛利 元就(もうり もとなり)は

撤退せざる終えなくなります。




10年以上に渡った

毛利氏と大友氏の筑前国争奪戦は、

ここでようやく

終わりを告げることとなります。












その後、

1570年、「巨勢・若宮の戦い」で、

龍造寺隆信、鍋島直茂と戦うことになります。




この戦で記録上、

初めて立花 道雪(たちばな どうせつ)は、

「輿(こし)」に、乗って戦っています。




なんで、急に

「輿(こし)」に、

乗って戦っているのか?と

不思議に思うことも多いと思います。




ちなみに、ここで言う

輿(こし)とは、

時代劇のテレビなどに良く出てくるもので、

「エッサ、オッサ」の掛け声で、

屋形(やかた)の中に人を乗せ、

その下に取り付けた二本の長柄(ながえ)を

かついで運ぶものです。




その理由と、

その後、どんな人生を歩んだのかを

解説していきます。

 







立花道雪が雷を切った!「愛刀雷切」と「鬼道雪」誕生のエピソート!

立花道雪が千鳥という刀で雷を斬り、以後、雷切と呼ばれるいう刀が誕生したイメージ写真



立花 道雪(たちばな どうせつ)が

なぜ「輿(こし)」に、

乗って戦っているのか?



立花 道雪(たちばな どうせつ)が「輿(こし)」に乗って戦うようになったって理由


1548年

立花 道雪(たちばな どうせつ)が

炎天下の日、大きな木の下で、

昼寝をしていたところ、




急な夕立が起こり、

その木に雷が落ちます。




ここで、

立花 道雪(たちばな どうせつ)の

伝説的エピソードが!






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なんと、

立花 道雪(たちばな どうせつ)が持っていた、

千鳥という刀で、

雷を斬ってしまったというのです。




その千鳥という刀には、

雷を斬った印があったため、

その刀は以後、

雷切(らいきり)と呼ばれるようになりました。




実はこの際に、

半身不随となってしまったため、

その後は、

「輿(こし)」に乗って戦うこととなりますが、

そんな状況下でも、

戦では敵将7人を斬り倒すなどしたことから、

敵から「鬼道雪」と呼ばれます。











その後、1578年

立花 道雪(たちばな どうせつ)の

主人である、大友 宗麟( おおとも そうりん)が、

薩摩(現在の鹿児島県)を拠点とする、

島津氏の討伐を計画します。




立花 道雪(たちばな どうせつ)は、

この計画に反対しますが、

主人である、大友 宗麟( おおとも そうりん)は

計画を強行し、「耳川の戦い」が勃発します。




立花 道雪(たちばな どうせつ)が、

この「耳川の戦い」に

参加してなかったためか、

大友勢は大敗するだけでなく、

優秀な武将を多数失ってしまいます。




これにより、

大友家の勢力は大きく衰えることになってしまい、




この大敗以後、

大友家は島津家に対して守勢に

回ることになってしまいます。




このような不利な情勢と将来性に悲観した、

大友家の家臣たちがどんどん辞めていくなか、

立花 道雪(たちばな どうせつ)は、

大友家に残り、

忠誠を誓い、島津氏と戦い続けます。












その後の

立花 道雪(たちばな どうせつ)は、

さすがです!

兵力が少ない状況のなか、

兵法や戦術、兵器、陣形を活用して、

局地戦に持ち込み、

兵力に勝る敵の大軍を撃破します。




が、




戦闘中に病気になり、

高良大社(現在の福岡県久留米市)で、

病気が治るようにと祈願が

行なわれるだけでなく、

仲間も必死に看病するも、




1585年、

73歳でその生涯を閉じることとなりました。












現代では、

・ゲーム

 戦国無双

 戦国ixa



など、



数々の作品にも取り上げられています。










また、

立花道雪をもっと詳しく知りたい方は、

本だけでなく、DVDもありますので、

ぜひ、ご覧ください。




立花道雪 炎の軍扇 (人物文庫)


戦神


立花宗茂と立花道雪 (人物文庫)






大友 宗麟( おおとも そうりん)にずっと仕えた、立花 道雪(たちばな どうせつ)の戦歴

大きい戦いは37戦、

小さな戦いは100戦を超え、

自ら総大将となった戦いは、

なんとほぼ無敗の戦績で、

「軍神」として誉めたたえられた、

立花 道雪(たちばな どうせつ)、




そんな彼の名言とは?

調べてみました。




ぜひ、元気をいっぱいもらってください。






 


雷を切る逸話!愛刀雷切!信長の野望に登場!鬼道雪!立花道雪の名言

流れ星と天の川を見ながら立花道雪の名言を回想しているイメージ写真



・人を弄べば徳を失い、物を弄べば志を失う。




・本来、弱い士卒という者はいない。

 もし弱い者がいれば、その人が悪いのではなく

 大将が励まさないことに罪がある。




ん~、心に響きますね。

 







まとめ

大分県豊後大野市にある原尻の滝を見ながら、立花道雪の生涯と名言を知って心が晴れ晴れとしたイメージ写真



立花 道雪(たちばな どうせつ)の生涯を

振り返ってみましょう。




立花 道雪(たちばな どうせつ)は、

1513年、大友家の一族で、

豊大野郷藤北(現在の大分県豊後大野市大野町)の

鎧岳(よろいだけじょう)城主、

戸次親家(べっき ちかいえ)の

次男として生まれ、




立花 道雪(たちばな どうせつ)の兄は

早世したため嫡男となるだけでなく、

幼くして母親を亡くし、

父も病気がちであったため、

代わりに、

父の後妻によって育てられました。












14歳の時に自ら志願し、

武功の老臣3人と、2,000人の兵を預けられ、

初陣。




兵力5,000人いる

大内領の

豊前馬ヶ岳城(現在の福岡県行橋市)に攻め入り、

兵力的に大きくは劣っていましたが、

なんと初勝利を挙げ、




その直後の1526年、

父親の死にともない、

家督を相続。












その後、

2つの乱を鎮圧し、

大友氏の重臣として活躍。




その後は、

筑前国や豊前国の侵攻を狙っていた毛利氏との

戦いに費やすこととなりました。




1557年

筑前や豊前の侵攻を狙っていた

毛利 元就(もうり もとなり)と通じていた

秋月 文種(あきづき ふみたけ)を自害に追い込み、




また、

豊前に出陣して、門司城などの地で

毛利 元就(もうり もとなり)の軍勢と

戦った功績から、




1561年、

大友 宗麟( おおとも そうりん)の補佐役などに

任命されました。




その後も戦いは続き、

1563年

室町幕府第13代将軍、足利義輝の仲介により、

休戦しますが、

休戦は一時的で、












1567年

かつて立花 道雪(たちばな どうせつ)が

自害に追い込んだ、

秋月 文種(あきづき ふみたけ)の

子・秋月 種実(あきづき たねざね)が、

毛利氏の援助を得てひそかに筑前国に入り、

秋月氏再興の兵を起こしただけでなく、




なんと、

味方である大友氏の重臣、

高橋 鑑種(たかはし あきたね)が

裏切りを起こし、

立花 道雪(たちばな どうせつ)は、

高橋氏、秋月氏討伐に動きだしました。






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自ら陣頭に立ち、

騎馬で敵陣に乗り込み、

敵の武将7人を斬り倒すだけでなく、

立花 道雪(たちばな どうせつ)の

武力だけでない、

エピソード覚えてますか?




毛利軍、秋月 種実(あきづき たねざね)が

自分の陣を強襲すると察知すると、

兵を近くに隠しておき、

兵がいるように見せるために、

囮の旗を立てて、息を潜んで待機させて、

何も知らない、

秋月 種実(あきづき たねざね)を

空の陣に誘い込み、

見事撃退しました。




また、

秋月 種実(あきづき たねざね)が、

今度は夜襲をかけてくると察知し、

兵に鎧を脱がせず、

いつでも戦える体制で待機させます。




予想通り、

秋月 種実(あきづき たねざね)が

夜襲をかけてきましたが、

味方が混乱、同士討ちを始めてしまい、

立花 道雪(たちばな どうせつ)は、

冷静にこれに対処しますが、

この混乱により数名の親戚を失ってしまいました。












その後、

度重なる戦いは続きますが、

立花 道雪(たちばな どうせつ)の

主人である、

大友 宗麟( おおとも そうりん)が、

毛利 元就(もうり もとなり)に滅ぼされた

大内家に乱を起させたりする策などを講じて、

毛利 元就(もうり もとなり)は撤退、




10年以上に渡った

毛利氏と大友氏の筑前国争奪戦は、

ここでようやく終わりを告げることとなりました。




その後、

1570年、「巨勢・若宮の戦い」で、

龍造寺隆信、鍋島直茂と戦うことになります。




この戦で記録上、

初めて立花 道雪(たちばな どうせつ)は、

「輿(こし)」に、

乗って戦っています。

その理由を覚えていますか?











1548年

立花 道雪(たちばな どうせつ)が

炎天下の日、大きな木の下で、

昼寝をしていたところ、

急な夕立が起こり、その木に雷が落ち、


その際、

立花 道雪(たちばな どうせつ)は持っていた、

千鳥という刀で、雷を斬り、



その千鳥という刀には、

雷を斬った印があったため、

その刀は以後、

雷切(らいきり)と呼ばれるように

なりました。




実はこの際に、

半身不随となってしまったため、

その後は、「輿(こし)」に、

乗って戦うこととなりますが、




そんな状況下でも、

戦では敵将7人を斬り倒すなどしたことから、

敵から「鬼道雪」と呼ばれました。

本当に神がかった強さです!









その後、

1578年、立花 道雪(たちばな どうせつ)の

主人である、

大友 宗麟( おおとも そうりん)が、

薩摩(現在の鹿児島県)を拠点とする、

島津氏の討伐を計画します。




立花 道雪(たちばな どうせつ)は、

この計画に反対しますが、計画を強行し、

大友勢は大敗。




これにより、

大友家の勢力は大きく衰え、

不利な情勢と将来性に悲観した、

大友家の家臣たちがどんどん

辞めていくなか、




立花 道雪(たちばな どうせつ)は、

大友家に残り、

忠誠を誓い、

島津氏と戦い続けました。









その後の

立花 道雪(たちばな どうせつ)は、

兵力が少ない状況のなか、

兵法や戦術、兵器、陣形を活用して、

局地戦に持ち込み、

兵力に勝る敵の大軍を撃破します。




が、




戦闘中に病気になり、

1585年、

73歳でその生涯を閉じることとなりました。




立花 道雪(たちばな どうせつ)、

戦歴を振り返ると、

大きい戦いは37戦、

小さな戦いは100戦を超え、




自ら総大将となった戦いは、

なんとほぼ無敗の戦績で、

「軍神」として

誉めたたえられました。













立花 道雪(たちばな どうせつ)が

残してくれた言葉で、

私が好きなのは、




・本来、弱い士卒という者はいない。

 もし弱い者がいれば、その人が悪いのではなく

 大将が励まさないことに罪がある。




2020年4月以降、

コロナ禍で

「今までの当たり前が、当たり前でなくなり、

 大きな変化が求められることになりました。」




このような状況下で、

リーダーが現状を分析、将来を示し、

変化することに、

日本の全員が楽しみながら行動するだけでなく、




改めて、仕事に対する使命感を認識し、

自分でもできるんだ!という

自信を持って1日1日を

大切に生きていくことにより、

良い会社、良い社会、

ひいては良い国になっていけると自分は信じています。

あなたはどう感じましたか?





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上手くいってるときも、

ピンチでどうしたらいいんだろうとブルーなときも、

歴史の先輩から学ぶ。

先輩たちの人生を参考にしながら、

明日から、

いやいや今から

自分たちも理想的で素敵な人生を送るために、

自分のペースの明るく・楽しく・元気よく

で、過ごしていきましょう。










次回は、


漫画「花の慶次」で有名に!かぶきもので人気の前田慶次の生涯と名言


という話を紹介します。

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