世界最強と謳われていた、
あのバルチック艦隊と激突する、
「日本海海戦」が幕を開けた際に、
士気を上げるためにとった行動だけでなく、
さらに、
この海戦において大胆な作戦を実行し、
日露戦争を勝利に導いた立役者の1人、
東郷平八郎の生涯と名言を紹介します。
目次
実は超イケメンと名高い!尊敬される東郷平八郎はどんな人物だった?
東郷平八郎は、
1848年、
薩摩国鹿児島城下の加治屋町二本松馬場
(現在の県立鹿児島中央高校化学講義室付近)に、
薩摩藩士の東郷実友の四男として生まれます。
1862年、
薩摩藩士として薩英戦争に従軍し初陣、
1868年、
明治政府を樹立した、
薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中心ととした新政府軍と、
旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った
日本の内戦である「戊辰戦争」において、
東郷平八郎は、
軍艦「春日丸」に乗り組み、
新潟・箱館まで転戦して、
日本史上初の蒸気機関を装備した
近代軍艦による海戦であった
「阿波沖海戦」や
新政府軍と旧幕府軍の最後の戦闘である
「箱館戦争」などで戦います。
その後、
明治時代となり、海軍士官として
1871年~1878年まで、
イギリスのポーツマスに留学。
この留学の間に国際法を学んだことが、
後年大いに役に立ち、
東郷平八郎の人生を飛躍させます。
イギリス留学中に学んだ「国際法」がその後の東郷平八郎の人生を飛躍させたエピソード
東郷平八郎が日清戦争時に、
防護巡洋艦「浪速」の艦長として、
停船の警告に応じない
イギリスの商船「高陞号」を、
国際法に違反しない行為であると判断し
撃沈します。
この時の法律に基づいた冷静な判断力が
非常に評価され、
後に
連合艦隊司令長官に抜擢されるのです。
話は変わりますが、
東郷平八郎の気になるエピソード
を紹介します。
1885年、
神奈川県横須賀市の浜通に
大日本帝国海軍の多くの海軍軍人に愛好された
「小松」という料亭(2016年5月16日に火災が発生し全焼)で、
東郷平八郎は身長はそんなに高くなかったのですが、
超イケメンだったので、
芸者から随分とモテたようです。
公私ともに順風満帆な、
東郷平八郎
その後、どんな展開となるのか?
解説していきます。
三笠でバルチック艦隊を撃破!日本海海戦を大勝利に導いた大胆な作戦
1894年、
日清戦争では、
防護巡洋艦「浪速」の艦長を務め、
日清戦争における初めての海戦となった
「豊島沖海戦」
近代的な装甲艦が投入された
最初の戦いとしても知られている
「黄海海戦」
1895年
「威海衛海戦」(いかいえかいせん)で活躍し、
この海戦後、少将に昇進、
1899年
九州を始めとする
西日本地域一帯の防衛と朝鮮・中国等
東アジアへの進出の根拠地として設立された、
佐世保鎮守府(させぼちんじゅふ)の
司令長官に就任、
1901年
対ロシアの戦略上を意識した
日本海側における
日本海軍の軍事拠点として新設された、
舞鶴鎮守府(まいづるちんじゅふ)の
初代司令長官に就任、
1903年
第一艦隊兼連合艦隊司令長官に任命されます。
そして1904年、
日露戦争が勃発。
秋山 真之(あきやま さねゆき)を作戦担当参謀とし、
旗艦「三笠」に乗り込んで指揮を執り、
ロシア海軍太平洋艦隊の基地である
「旅順港の攻撃」や「黄海海戦」を
はじめとする海軍の作戦全般を指揮します。
旅順港の攻撃の戦いの一幕である、
「旅順封鎖作戦」時に、
戦艦「初瀬」と「八島」が
撃沈されたという報告を受けても、
冷静に振る舞うだけでなく、
両艦の艦長を労わり、
動揺を収め、
この対応により、
大将に昇進します。
そして1905年、
ついに、当時、世界最強と謳われていた、
あのバルチック艦隊と激突する、
「日本海海戦」が幕を開けます。
東郷平八郎が「日本海海戦」において士気を高めるために行ったこと
この「日本海海戦」に際し、
東郷平八郎は、
「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。
本日天気晴朗なれども波高し」との一報を
最高司令部である大本営に打電するだけでなく、
また、各艦隊に対しは、
イギリスがナポレオン1世の英本土上陸の野望を粉砕した、
トラファルガー海戦の事例に習い、Z旗を掲げ、
「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」と
全軍の士気を鼓舞します。
指揮を大いに高めるだけでなく、
東郷平八郎が「日本海海戦」において実施した大胆な行動とは
まずは、敵艦隊の進行する方向に、
さえぎるような形で自軍の艦隊を動かし、
全火力を敵艦隊の先頭艦に集中し、
各個撃破を図り、
その後続けざまに、
自分の艦隊を敵前で大回頭を行い、
さらに砲撃を加えるという大胆な指示を出し、
「日本海海戦」で勝利を納めます。
ちなみに、
この回頭を「トウゴウ・ターン」と
称されました。
東洋の小さな国であった日本が、
あの大国ロシアを打ち負かし、
世界中を驚かせた、
歴史的な戦争の結末を迎えたのです。
この海戦における勝利により、
東郷の名とともに
ロシアのバルチック艦隊の壊滅的状況が
世界中に伝えられます。
ちなみに、
このバルチック艦隊との「日本海海戦」は、
2日間におよびました。
結果がなんともすごいのです!!
バルチック艦隊で
なんとか生き残った駆逐艦以上の艦艇は
たった3隻のみ。
一方、日本側の損害はいうと、
ほぼ無傷でした。
結果、
この海戦は、
世界海戦史上最も完全に近い勝敗と言われているだけでなく、
各国の軍事研究でも注目されているようです。
東郷平八郎が「日本海海戦」に勝利したことにより、影響を及ぼした国とは
当時ロシアの圧力に苦しんでいた
オスマン帝国(現在のトルコ)に
おいても自国の勝利のように喜ばれ、
東郷平八郎は同国の国民的英雄となるだけでなく、
その年に同国で生まれた子供たちの名前に、
「トーゴー」と名づける人がいるほど
熱狂的な人気者となります。
すごいことですね!
その後は、
1907年、
伯爵を授爵。
東郷平八郎が日本人「初」のタイトルとは
1926年、
アメリカ合衆国のニュース雑誌『タイム』誌の
同年11月8日号において、
表紙を飾るカバーパーソンで、
初の日本人となりました。
また、「初」つながりで、
話は大きく変わり、諸説ありますが、
東郷平八郎が初めて日本で肉じゃがを
作らせたと言われています。
そんな、
東郷平八郎は、
1934年、喉頭癌(こうとうがん)など、
多数の病気が悪化、
86歳でその生涯を閉じることとなりました。
死後、
東京都渋谷区と福岡県宗像郡津屋崎町(現・福津市)に
「東郷神社」が建立されました。
現代では、
映画
・田崎潤主演、
『明治天皇と日露大戦争』
・三船敏郎主演、
『日本海大海戦』『日本海大海戦 海ゆかば』
テレビドラマ
・TBS、 芦田伸介主演、
『海は甦える』
・TBS、渡辺文雄主演、
『二百三高地 愛は死にますか』
・日本テレビ、新田純一出演、
『五稜郭』
・NHK、渡哲也出演、
『坂の上の雲』
など、
数々の作品にも取り上げられています。
また、東郷平八郎をもっと詳しく知りたい方は、
ぜひ、読んで見てください。
東郷平八郎伝 日本海海戦の勝者 (光人社NF文庫)
東郷平八郎 (読みなおす日本史)
東郷平八郎 近代日本をおこした明治の気概
東郷平八郎 (講談社学術文庫)
東郷平八郎空白の四年間 対米作戦に向けた日本海軍の足跡
そんな東郷平八郎が
残してくれた言葉とは?
調べてみました。
ぜひ、元気をいっぱいもらってください。
日本海海戦でバルチック艦隊を撃破し勝利!イケメン東郷平八郎の名言
・降伏するのであれば、その艦は停止せねばならない。
しかるに、敵はいまだ前進している。
・皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ。
・兵器に格差があるときには、百発百中の大砲一門だけで、
百門をもっているが一発しか当たらない大砲群と互角に戦うことができる。
・軍備に制限は加えられても訓練には制限はありますまい。
・日本海海戦で勝利を得たのは、
横須賀造船所で艦隊の十分な補給と整備を受けることができたからである。
ん~、心に響きますね。
まとめ
東郷平八郎、
東洋の小さな国であった日本が、
あの大国ロシアを打ち負かし、
世界中を驚かせ、
現在の日本という国の基礎を
築いてくれた人でした。
東郷平八郎 は、
1848年、
薩摩国鹿児島城下の加治屋町二本松馬場
(現在の県立鹿児島中央高校化学講義室付近)に、
薩摩藩士の東郷実友の四男として生まれ、
1862年、
薩摩藩士として薩英戦争に従軍し初陣、
1868年、
明治政府を樹立した
薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中心ととした新政府軍と、
旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った
日本の内戦である「戊辰戦争」において、
東郷平八郎は、
軍艦「春日丸」に乗り組み、
新潟・箱館まで転戦して、
日本史上初の蒸気機関を装備した
近代軍艦による海戦であった
「阿波沖海戦」や
新政府軍と旧幕府軍の最後の戦闘である
「箱館戦争」などで戦いました。
明治時代となり、海軍士官として
1871年~1878年まで、
イギリスのポーツマスに留学。
この留学の間に国際法を学んだことが、
後年大いに役に立ち、
東郷平八郎の人生を飛躍させました。
そのエピソードとして、
東郷平八郎が日清戦争時に、
防護巡洋艦「浪速」の艦長として、
停船の警告に応じない
イギリスの商船「高陞号」を、
国際法に違反しない行為であると判断し撃沈させ、
この時の法律に基づいた
冷静な判断力が非常に評価され、
後に連合艦隊司令長官に抜擢されました。
1894年、
日清戦争では、
防護巡洋艦「浪速」の艦長を務め、
日清戦争における初めての海戦となった
「豊島沖海戦」、
近代的な装甲艦が投入された
最初の戦いとしても知られている
「黄海海戦」、
1895年、
「威海衛海戦」(いかいえかいせん)で活躍し、
この海戦後、少将に昇進し、
1899年、
九州を始めとする
西日本地域一帯の防衛と朝鮮・中国等
東アジアへの進出の根拠地として設立された、
佐世保鎮守府(させぼちんじゅふ)の司令長官に就任、
1901年、
対ロシアの戦略上を意識した
日本海側における日本海軍の軍事拠点として、
新設された
舞鶴鎮守府(まいづるちんじゅふ)の
初代司令長官に就任、
1903年、
第一艦隊兼連合艦隊司令長官に任命されました。
出世街道まっしぐらで、
順調にキャリアを築いていきました。
そして1904年、
日露戦争が勃発し、
秋山 真之(あきやま さねゆき)を作戦担当参謀とし、
旗艦「三笠」に乗り込んで指揮を執り、
ロシア海軍太平洋艦隊の基地である
「旅順港の攻撃」や「黄海海戦」をはじめとする
海軍の作戦全般を指揮しました。
旅順港の攻撃の戦いの一幕である、
「旅順封鎖作戦」時に、
戦艦「初瀬」と「八島」が撃沈されたという
報告を受けても、
冷静に振る舞うだけでなく、
両艦の艦長を労わり、
動揺を収め、
この対応により、大将に昇進しました。
そして1905年、
ついに、当時、世界最強と謳われていた、
あのバルチック艦隊と激突する、
「日本海海戦」が幕を開けます。
この「日本海海戦」に際し、
東郷平八郎は、
「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。
本日天気晴朗なれども波高し」との一報を
最高司令部である大本営に打電するだけでなく、
また、各艦隊に対して、
士気の上げ方がカッコ良かったですね。
イギリスがナポレオン1世の英本土上陸の野望を粉砕した、
トラファルガー海戦の事例に習い、Z旗を掲げ、
「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」と
全軍の士気を鼓舞しました。
さらに、
指揮を大いに高めるだけでなく、
東郷平八郎の「日本海海戦」における、
大胆な作戦、
覚えてますか?
まずは、
敵艦隊の進行する方向に、
さえぎるような形で自軍の艦隊を動かし、
全火力を敵艦隊の先頭艦に集中し、
各個撃破を図り、
その後続けざまに、
自分の艦隊を敵前で大回頭を行い、
さらに砲撃を加えるという大胆な指示を出し、
「日本海海戦」で勝利を納めました。
ちなみに、
この回頭を「トウゴウ・ターン」と
称されましたね。
東洋の小さな国であった日本が、
あの大国ロシアを打ち負かし、
世界中を驚かせた、
歴史的な戦争の結末を迎えたのです。
この海戦における勝利により、
東郷の名とともに
ロシアのバルチック艦隊の壊滅的状況が
世界中に伝えられました。
ちなみに、
このバルチック艦隊との「日本海海戦」は、
2日間におよびました。
結果がなんともすごいのです!!
バルチック艦隊で
なんとか生き残った駆逐艦以上の艦艇はたった3隻のみ。
一方、日本側の損害はいうと、
ほぼ無傷でした。
結果、
この海戦は、
世界海戦史上最も完全に近い勝敗と言われているだけでなく、
各国の軍事研究でも注目されました。
また、この他にも、
当時ロシアの圧力に苦しんでいた
オスマン帝国(現在のトルコ)においても、
自国の勝利のように喜ばれ、
東郷平八郎は同国の国民的英雄となるだけでなく、
その年に同国で生まれた子供たちの名前に、
「トーゴー」と名づける人がいるほど
熱狂的な人気者となりました。
すごいことです!
その後は、
1907年、
伯爵を授爵。
1926年、
アメリカ合衆国のニュース雑誌『タイム』誌の
同年11月8日号において、
表紙を飾るカバーパーソンで、
初の日本人となりました。
また、「初」つながりで、
話は大きく変わり、諸説ありますが、
東郷平八郎が、
初めて日本で肉じゃがを
作らせたと言われていましたね。
そんな、
東郷平八郎は、
1934年、喉頭癌(こうとうがん)など、
多数の病気が悪化、
86歳でその生涯を閉じることとなりました。
そんな東郷平八郎が
残してくれた言葉で、
自分が好きなのは、
・軍備に制限は加えられても訓練には制限はありますまい。
現代風に捉え直すと、
「軍備」をお金や現在自分が所有しているモノである
「資産」と仮定した場合、
それだけに焦点を当て、
『できない理由』を探すのではなく、
「訓練」を「時間配分」「やる気」「やり方」と仮定した場合、
自分がどうしたいのかを真剣に考え、
『どうしたらできるか?という、できる理由』に
焦点を合わせ、
行動し続けることが大事で、
それが結果につながっていくと考えさせられる、
味のある言葉だと思いました。
あなたはどう思いましたか?
上手くいってるときも、
ピンチでどうしたらいいんだろうとブルーなときも、
歴史の先輩から学ぶ。
先輩たちの人生を参考にしながら、
明日から、
いやいや今から
自分たちも理想的で素敵な人生を送るために、
自分のペースの明るく・楽しく・元気よく
で、過ごしていきましょう。
次回は、
日露戦争を勝利に導く!坂の上の雲でも登場!児玉源太郎の生涯と名言
という話を紹介します。
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