シーボルトの鳴滝塾で医学と蘭学を学ぶ!天才!高野長英の生涯と名言

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蘭学書の翻訳を日本で初めて試み大きな成果を上げた高野長英


蘭学書の翻訳を日本で初めて試み、

大きな成果を上げた、

高野長英。




とあることがキッカケとなり、

顔の印象を変えるためにとった

驚きの行動に唖然!




そんな高野長英を紹介します。








 

シーボルト事件との関わりは?高野長英とはいったいどんな人物なのか

蘭方医であった杉田伯元や吉田長淑を師として医学を学ぶ


1804年、

陸奥国仙台藩の一門である、

水沢領主水沢伊達家家臣、

後藤実慶の三男として生まれます、




養父の玄斎は

江戸で杉田玄白に蘭法医術を学んだことから、

家には蘭書が多く、

高野長英も幼いころから、

新しい学問に強い興味を持つようになったようです。




1820年、

父の反対を押し切り、江戸に上京。




主に長崎出島のオランダなどを介して、

江戸時代に伝えられた医学である、

蘭方医(らんぽうい)であった、

杉田 伯元(すぎた はくげん)や

吉田 長淑(よしだ ちょうしゅく)を

師として学びます。




その後、同年、

長崎に留学して

シーボルトの鳴滝塾で医学・蘭学を学び、

その抜きん出た学力から、

なんと、

生徒から先生になるのです。




抜きん出た学力、

本当にすごかったんでしょうね!






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1828年、

「シーボルト事件」その際の高野長英は

シーボルト事件とは、

オランダ商館付の医師であるシーボルトが、

国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などを

持ち出そうとして発覚した事件で、

この件に関わった、

役人などが多数処刑された事件のことを指します。



この事件の際、

高野長英は、

二宮敬作や高良斎など主だった弟子とともに

捕らえられて厳しい取り調べを受けますが、

高野長英はのらりくらりと上手く対応します。




その後、

養父である玄斎が亡くなり、

高野長英は故郷から盛んに帰郷を求められ、

どうしたらいいか悩みます。




結果、帰郷を断り、

家督を捨て、

そして同時に武士の身分を失うことを選択します。




高野長英、

その後、

どんな人生を歩んだのかを解説していきます。

 



モリソン号事件で人生が一変!逃亡するための顔に仕掛けた驚きの方法

江戸時代後期の医者と蘭学者である小関三英や医者であり兵学者である鈴木春山とともに蘭学書の翻訳に当たる



1830年、

江戸に戻った高野長英は、

麹町(東京都千代田区)に

町医者として蘭学塾を開業します。



開業後、すぐに

三河田原藩の重役である

渡辺 崋山(わたなべ かざん)と知り合い、

その能力を買われて

田原藩の蘭学者として雇われ、




江戸時代後期の医者・蘭学者である、

小関 三英(こせき さんえい)や




医者であり、兵学者である、

鈴木 春山(すずき しゅんさん)とともに、

蘭学書の翻訳に当たります。


この翻訳は、日本で初めてのことで、

ピタゴラスからガリレオ・ガリレイ、

近代のジョン・ロック、ヴォルフに至る、

西洋哲学史を要約した大きな成果となります。






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その後、1832年、

紀州藩儒官、遠藤勝助の主宰した、

天保の大飢饉の対策会である

尚歯会という団体にに入り、

武士であり、画家である、

渡辺 崋山(わたなべ かざん)や

東湖神社の祭神である、

藤田 東湖(ふじた とうこ)たちとともに、

中心的役割を担います。




ここで、

高野長英の面白いエピソード

をご紹介します。




シーボルトが長崎郊外に設けた私塾、

鳴滝塾の出身者たちの宴会があり、

そこで、オランダ語以外の言葉を使うと

罰金というルールのゲームが

スタートします。




酒が入り、

ついつい日本語をしゃべってしまい、

多くの人たちは、

罰金を取られてしまいますが、




高野長英だけは、

オランダ語を使い続けます。




それを妬んだ仲間の

伊東 玄朴(いとう げんぼく)という人物が、

なんと、高野長英を階段から突き落とします。




しかし、

高野長英はオランダ語で「GEVAARLIJK!」

(日本語で「危ない!」)と

叫んだという逸話が残っています。




伊東 玄朴(いとう げんぼく)が、

なぜ、

階段から突き落とすぐらいのことをしたかというと、




高野長英は、

当時の蘭学者として最大の実力者であると

周囲は認めざるを得なかったものの、

その実力を、

鼻にかけ調子に乗る傾向があり、

その行動が仲間内の間では非常に評判が悪く、

嫌われていたことが背景になるようです。












モリソン号事件・蛮社の獄で高野長英の人生が大きく動き出す


その後、1837年、

異国船打払令に基づいて

アメリカ船籍の商船モリソン号が

打ち払われる

「モリソン号事件」が起きます。




翌年の1838年、

この事件を知った高野長英は、

「鎖国政策を続けることは無茶なことだ、やめておけ」

みたいなことを述べ、

仲間とともに幕府の対応を批判します。




批判するだけなら良かったのかもしれないのですが、

自分の実力を誇示するためなのか?

高野長英は、そうした意見をまとめた

『戊戌夢物語』という本を執筆し、

内輪だけに回覧します。




ところが、

この本が高野長英の想像をはるかに超えて

多くの学者の間で出回ってしまい、

読まれることになります。









1839年、

「蛮社の獄」が勃発します。

「蛮社の獄」とは、

先ほど紹介した「モリソン号事件」に加え、

江戸幕府の「鎖国政策」を

言論弾圧した事件のことを指します。




覚えてますか?




高野長英は、

江戸幕府の「鎖国政策」の批判を、

声だけでなく、

本も執筆していました。




当然、

高野長英も捕らえられます。



判決は・・・

「永牢終身刑」という判決が下り、

現在の東京都中央区にあった、

伝馬町牢屋敷(てんまちょうろうやしき)に

収監。



数年が経ち、

大きな出来事が起こります。











1844年、

牢屋敷の火災が発生、

これに乗じて、

高野長英は脱獄します。




なんとこの火災は、

高野長英が牢で働いていた非人栄蔵を

そそのかして放火させたとされているのです。




脱獄の際、役人から、

3日以内に戻って来れば罪を一段階低い刑にするが、

戻って来なければ、

死罪という警告を受けます。




この警告を受けた、

高野長英がとった行動とは?






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結果、警告を無視します。




高野長英を捕まえるため、

「人相書き」が出回っていたためと

伝えられています。



高野長英が捕まらないために顔を変えた驚きの方法

そこで、高野長英は、なんと!

硝酸で顔を焼いて

人相を変えながら逃亡生活を続けます。












そして、

大間木村(現:さいたま市緑区)に住んでいた、

弟子の高野 隆仙(たかの りゅうせん)のもとを訪れ、

かくまってもらいます。




ところが、

この生活は長くは続かず、

しばらくして、高野長英は、

江戸に戻り、

「沢三伯」という偽名を使って、

町医者を開業します。




医者になれば人と対面する機会が多くなるため、

ここでも、なんと!

また硝酸で顔を焼いて、

人相を変えていたと伝えられています。




そして、1850年、

江戸の青山百人町(現在の東京都港区南青山)に

隠れていたところを、

誰かに密告され、

町奉行所に捕まってしまいます。




その際に、

多数の人に十手で殴打され、

46歳でその生涯を閉じることとなりました。










ちなみに、

高野長英の遠縁にあたる人物とは

内務大臣、外務大臣、東京市長など、

すごい役職を歴任し、

関東大震災後の世界最大規模の帝都復興計画を

策定した後藤新平

高野長英の遠縁に当たります。












現代では、

●テレビ

・1963年、

 NHK大河ドラマ、須永宏出演、「花の生涯」



・1974年、

 NHK大河ドラマ、戸浦六宏出演、「勝海舟」



・1977年、

 朝日放送・松竹、近藤正臣主演、「新 必殺からくり人」



・1994年、

 日本テレビ・松竹、山内としお出演、「父子鷹」



・1997年、

 朝日放送・松竹、上弘明主演、「大追跡! 江戸~上州~みちのく~四国」



など、

数々の作品にも取り上げられています。










また、高野長英をもっと詳しく知りたい方は、

ぜひ、読んで見てください。




評伝高野長英 1804-50



長英逃亡潜伏記 高野長英と伊達宗城異聞



日本開国の道標 開国へ先鞭をつけた渡辺崋山と高野長英





1971年には、

岩手県奥州市水沢中上野町に

「奥州市立高野長英記念館」も設立された、




そんな彼の名言とは?

ピックアップしてみました。

ぜひ、元気をいっぱいもらってください。








 

歴史上の人物!不屈の精神を持つ医者!天才と名高い高野長英の名言!

蘭学書の翻訳を日本で初めて試み大きな成果を上げた高野長英の名言を知って、心が晴れ晴れとするイメージイラスト



・人は学ぶためには、食わねばならない。
 しかし、食うために学んではならない。



ん~、心に響きますね。

 



まとめ 

高野長英は江戸に戻り町医者を開業



高野長英の生涯を振り返ってみましょう。




1804年、

陸奥国仙台藩の一門である

水沢領主水沢伊達家家臣、

後藤実慶の三男として生まれ、




養父の玄斎は

江戸で杉田玄白に蘭法医術を学んだことから、

家には蘭書が多く、

高野長英も幼いころから、

新しい学問に強い興味を持つようになりました。




1820年、

父の反対を押し切り、江戸に上京し、

蘭方医(らんぽうい)であった、

杉田 伯元(すぎた はくげん)、

吉田 長淑(よしだ ちょうしゅく)を

師として学びました。




その後、同年、

長崎に留学して

シーボルトの鳴滝塾で医学・蘭学を学び、

その抜きん出た学力から、

なんと、

生徒から先生になりました。






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1828年、

「シーボルト事件」が起き、

この事件の際、

高野長英は、

二宮敬作や高良斎など主だった弟子とともに

捕らえられて厳しい取り調べを受けますが、

高野長英はのらりくらりと上手く対応しました。




その後、

養父である玄斎が亡くなり、

高野長英は故郷から

盛んに帰郷を求められるも、

帰郷を断り、家督を捨て、

そして同時に武士の身分を失うことを選択しました。












1830年、

江戸に戻った高野長英は、

麹町(東京都千代田区)に

町医者として蘭学塾を開業しました。




開業後、すぐに

三河田原藩の重役である

渡辺 崋山(わたなべ かざん)と知り合い、

その能力を買われて田原藩の蘭学者として雇われ、




江戸時代後期の医者・蘭学者である、

小関 三英(こせき さんえい)や




医者であり、兵学者である、

鈴木 春山(すずき しゅんさん)とともに、

蘭学書の翻訳に当たりました。




覚えてますか?




この翻訳は、日本で初めてのことで、

ピタゴラスからガリレオ・ガリレイ、

近代のジョン・ロック、ヴォルフに至る、

西洋哲学史を要約した

大きな成果となりました。












その後、1837年、

異国船打払令に基づいて

アメリカ船籍の商船モリソン号が

打ち払われる「モリソン号事件」が起き、




翌年の1838年、

この事件を知った高野長英は、

「鎖国政策を続けることは無茶なことだ、やめておけ」

みたいなことを述べ、

仲間とともに幕府の対応を批判するだけでなく、




批判する意見をまとめた

『戊戌夢物語』という本も執筆し、

内輪だけに回覧するも、

高野長英の想像をはるかに超えて

多くの学者の間で出回ってしまい、

読まれることになりました。












1839年、

「蛮社の獄」が勃発し、高野長英はも捕らえられ、

「永牢終身刑」という判決が下り、

収監されました。




1844年、

高野長英が

牢屋敷の火災をが発生させる策を仕掛けて、

脱獄。



高野長英を捕まえるため、

「人相書き」が出回り、

高野長英のすごい行動、

覚えてますか?




硝酸で顔を焼いて

人相を変えながら逃亡生活を続けました。












その後、しばらくして、

高野長英は、江戸に戻り、

「沢三伯」という偽名を使って、

町医者を開業しましたが、

医者になれば人と対面する機会が多くなるため、



ここでも、なんと!

また硝酸で顔を焼いて、

人相を変えていたと伝えられていましたね。




医者という使命なのでしょうか?

すごい根性です!




そして、

1850年、

江戸の青山百人町(現在の東京都港区南青山)に

隠れていたところを、

誰かに密告され、町奉行所に捕まり、

その際に、多数の人に十手で殴打され、

46歳でその生涯を閉じることとなりました。












高野長英が

残してくれた言葉、




・人は学ぶためには、食わねばならない。
 しかし、食うために学んではならない。



この言葉を見たときに、

社会人になりたての頃を思い出しました。

当時の直属の上司から、

「食べるために働いてはダメ」、

「働くために食べないといい仕事はできない」と

言われたことがありました。




あれから私も歳をとり、

立場も変わり、

「自分のしたいこと、できること、

しなくてはいけないこと」の

バランスをとるのが、

当時と比べると、

意識できるようになりました。




高野長英は、

「学ぶ」にしても、

その「目的」をブラしてはいけないと。




さらに、

高野長英の生涯を振り返ると、

捕まるリスクがあっても、

また硝酸で自分の顔を焼いてまでも、

江戸に戻り、

医者として自分の決めた人生を輝かせるため、

「志」、「使命感」、「行動」が

つねに大事だということを

分かりやすく表現してくれている

味わい深い言葉だと思いました。




あなたははどう感じましたか?











上手くいってるときも、

ピンチでどうしたらいいんだろうとブルーなときも、

歴史の先輩から学ぶ。

先輩たちの人生を参考にしながら、

明日から、

いやいや今から

自分たちも理想的で素敵な人生を送るために、

自分のペースの明るく・楽しく・元気よく

で、過ごしていきましょう。





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次回は、


NHKの大河ドラマ「晴天を衝け」吉沢亮熱演!渋沢栄一の生涯と名言


という話を紹介します。

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