松下村塾に安政の大獄、数々の大河ドラマにも登場する
吉田松陰の生涯と名言を紹介します。
東北遊学にペリーの浦賀来航、
西洋の文明に憧れ海外密航するも失敗。
日米修好通商条約に反対し、
安政の大獄で弾圧された吉田松陰の最期とは?
分かりやすく解説させていただきました。
目次
夢なきものに成功なし・至誠で有名!吉田松陰はどんな人物で何した人
1830年
長州萩城下松本村(現在の山口県萩市)で、
長州藩士・杉百合之助の次男として生まれ、
1834年
山鹿流兵学師範であった叔父の吉田大助の養子となり、
兵学を学びます。
1835年
叔父の吉田大助が亡くなってしまったため、
別の叔父である、玉木文之進が開いた松下村塾で
指導を受けることになりました。
なんと、9歳のときに
長州藩が藩士の子弟を教育するために設立した学校、
明倫館の兵学師範に就任します。
ちなみに、この学校の卒業生は、
吉田松陰はもちろんのこと、
・井上馨
・桂小五郎(後の木戸 孝允(きど たかよし))
・高杉晋作
・乃木希典
など、活躍する有名人を多数輩出しています。
その後の活躍も驚くほど、
凄まじいです。
松下村塾!夢なきものに成功なし・至誠で有名!吉田松陰のその後は?
11歳のときに、
未来に明治維新を成し遂げるきっかけを作った
人物としても有名である、
当時の藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが
見事であったことにより、
その才能が認められ、
13歳のときに、
長州軍を率い、西洋艦隊撃滅演習を実施します。
15歳のときに、
幕末の長州藩士であった山田亦介から
長沼流兵学の講義を受けることができ、
江戸時代の兵学の双璧で言われた、
山鹿流、長沼流の2つを学び、極めてしまうのです。
順風満帆に見えた、吉田松陰
ところが、ここで衝撃のエピソードを知り、
ある行動に出ます。
アヘン戦争によって、清が西洋列強に大敗したことを知り、
学んでいた、山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感、
このままではいけないと、
1850年
西洋兵学を学ぶために、九州に勉強に出かけるだけでなく、
江戸にも足を伸ばし、
松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家、佐久間象山に加え
幕末の朱子学者、安積艮斎だけでなく、
1851年には、
交流を深めていた
武士・熊本藩士、宮部鼎蔵(みやべていぞう)
江戸時代の兵学者、山鹿素水(やまがそすい)からも、
教えを受けるのです。
1852年、
宮部鼎蔵(みやべていぞう)らと東北旅行を実施、
水戸で水戸藩士、水戸学藤田派の学者・思想家、会沢正志斎と面会、
会津では、白虎隊をはじめ、
戊辰戦争やその後に活躍する人材を数多く輩出した、
会津藩の藩校、日新館の見学を始め、
東北の鉱山の状況などをを見学。
秋田では南部藩士・下斗米秀之進(しもとまい ひでのしん)を
首謀者とする数人が、
参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた、
津軽藩主・津軽寧親を襲った暗殺未遂事件、
通称、相馬大作事件の現場を訪ね、
津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようと
活発的に行動します。
1853年
ペリーが浦賀に来航すると、
師匠である佐久間象山と黒船を遠くから観察し、
西洋の先進文明に心を打たれます。
その後、外国留学を決意するも、
タイミングが合わず、断念せざることになります。
1854年
ペリーが日米和親条約締結のために再航した際に、
金子重之輔という人物と2人で、
なんと!海岸につないであった漁民の小舟を盗んで、
ポーハタン号という船まで漕ぎ、乗船するのです。
乗船できたまでは良かったものの、
渡航は拒否されてしまい、
乗ってきた小船も流されたため、
海外密航に失敗。
下田奉行所に自首し、
投獄されることになります。
幕府の一部では、
吉田松陰を死罪にしようという動きもありましたが、
長州になった野山獄(のやまごく)という牢屋に送られます。
松下村塾!夢なきものに成功なし・至誠で有名!吉田松陰の死因とは?
1858年、
幕府が天皇の許可なく、
日米修好通商条約を締結したことを知って
吉田松陰は激怒、
幕府が日本最大の障害になっていると批判し、
友人や弟子に倒幕をも持ちかけるも、
支持を得られず、
その結果、
長州藩に危険人物と見なされて、
再度、野山獄に送られます。
1859年
儒学者であった梅田雲浜(うめだうんぴん)という人物が
幕府に捕らえられると、
萩で梅田雲浜(うめだうんぴん)が滞在した際に、
吉田松陰と面会していたこともあり、
吉田松陰は、
江戸に檻送されて
伝馬町牢屋敷に投獄されてしまうのです。
これを、
幕府が天皇の許可なく、
日米修好通商条約を締結したことを
反対する者たちを弾圧するため、
当時の江戸幕府が行なった事件、
「安政の大獄」といいます。
評定所(現在の裁判所)で、
幕府が吉田松陰に問いただしたのは、
梅田雲浜(うめだうんぴん)が萩に滞在した際の
会話内容などの確認であったが、
吉田松陰は老中暗殺計画を自ら進んで告白するのです。
この結果、吉田松陰に死罪が宣告され、
1859年
伝馬町牢屋敷にて刑が執行され、
30歳でその生涯を終えることになりました。
・小説
司馬遼太郎『世に棲む日日』
童門冬二『小説吉田松陰』
・テレビドラマ
2000年 NHK、中村橋之助出演
『蒼天の夢 松陰と晋作・新世紀への挑戦』
2010年 NHK大河ドラマ、生瀬勝久出演
『龍馬伝』
2013年 NHK大河ドラマ、小栗旬出演
『八重の桜』
2015年 NHK大河ドラマ、伊勢谷友介出演
『花燃ゆ』
など、
数々の作品にも取り上げられています。
また、吉田松陰をもっと詳しく知りたい方は、
本だけでなく、DVDもありますので、
ぜひ、ご覧ください。
吉田松陰に学ぶ最強のリーダーシップ論【超訳】留魂録
運命を拓く?心を磨く 吉田松陰
覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰 (Sanctuary Books)
熱誠の人 吉田松陰語録に学ぶ人間力を高める生き方
吉田松陰に学ぶ リーダーになる100のルール
さらに、2020年8月21日に、
高嶋ちさ子、石原良純、長嶋一茂が出演する、
「ザワつく!金曜日」というテレビ番組で、
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「どのポテトチップスが1番好きか?」を決めるコーナーで、
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そんな彼の名言とは?
生き様だけでなく、
最近では「吉田松陰のポテトチップ」でも注目を集めている、
吉田松陰の名言をピックアップしてみました。
ぜひ、元気をいっぱいもらってください。
松下村塾!「夢なきものに成功なし」「至誠」で有名!吉田松陰の名言
・夢なき者に理想なし、
理想なき者に計画なし、
計画なき者に実行なし、
実行なき者に成功なし。
故に、夢なき者に成功なし。
・一つ善いことをすれば、その善は自分のものとなる。
一つ有益なものを得れば、それは自分のものとなる。
一日努力すれば、一日の効果が得られる。
一年努力すれば、一年の効果がある。
・過ちがないことではなく、
過ちを改めることを重んじよ。
・決心して断行すれば、
何ものもそれを妨げることはできない。
大事なことを思い切って行おうとすれば、
まずできるかできないかということを忘れなさい。
・世の中には体は生きているが、
心が死んでいる者がいる。
反対に、体が滅んでも魂が残っている者もいる。
心が死んでしまえば生きていても、仕方がない。
魂が残っていれば、たとえ体が滅んでも意味がある。
・大事なことを任された者は、才能を頼みとするようでは駄目である。
知識を頼みとするようでも駄目である。必ず志を立てて、
やる気を出し努力することによって上手くいくのである。
・学問とは、人間はいかに生きていくべきかを学ぶものだ。
・自分の価値観で人を責めない。
一つの失敗で全て否定しない。
長所を見て短所を見ない。
心を見て結果を見ない。
そうすれば人は必ず集まってくる。
・道を志した者が不幸や罪になることを恐れ、
将来につけを残すようなことを黙ってただ受け入れるなどは、
君子の学問を学ぶ者がすることではない。
・どんな人間でも一つや二つは素晴らしい能力を持っているのである。
その素晴らしいところを大切に育てていけば、一人前の人間になる。
これこそが人を大切にするうえで最も大事なことだ。
・大器をつくるには、いそぐべからずこと。
・小人が恥じるのは自分の外面である、
君子が恥じるのは自分の内面である。
人間たる者、自分への約束をやぶる者がもっともくだらぬ。
死生は度外に置くべし。
世人がどう是非を論じようと、迷う必要は無い。
武士の心懐は、いかに逆境に遭おうとも、爽快でなければならぬ。
心懐爽快ならば人間やつれることはない。
・私心さえ除き去るなら、
進むもよし退くもよし、
出るもよし出ざるもよし。
・悔いるよりも今日直ちに決意して、
仕事を始め技術をためすべきである。
何も着手に年齢の早い晩いは問題にならない。
・人間はみななにほどかの純金を持って生まれている。
聖人の純金もわれわれの純金も変わりはない。
・だいたいにおいて世間の毀誉(悪口と称賛)というものは、
あてにならぬものである。
まとめ
吉田松陰の生涯を振り返ってみましょう。
・なんと、9歳のときに
長州藩が藩士の子弟を教育するために設立した学校、
明倫館の兵学師範に就任しました。
・幕末の長州藩士であった山田亦介から
長沼流兵学の講義を受けることができ、
江戸時代の兵学の双璧で言われた、
山鹿流、長沼流の2つを学び、極めてしまいました。
・ペリーが浦賀に来航すると、
師匠である佐久間象山と黒船を遠くから観察し、
西洋の先進文明に心を打たれました。
・ペリーが日米和親条約締結のために再航した際に、
ポーハタン号という船まで漕ぎ、乗船するも、
海外密航に失敗。
下田奉行所に自首し、
投獄されることになりました。
・吉田松陰は老中暗殺計画を自ら進んで告白しました。
この結果、吉田松陰に死罪が宣告され、
1859年
伝馬町牢屋敷にて刑が執行され、
30歳でその生涯を終えることになりました。
吉田松陰が残してくれた言葉、
・夢なき者に理想なし、
理想なき者に計画なし、
計画なき者に実行なし、
実行なき者に成功なし。
故に、夢なき者に成功なし。
最後、正直に暗殺計画を自ら進んで、
告白しなければ、
もしかしたら、生きていたかもしれません。
でも、正直に告白したことは、
やはり自分の信念を曲げず、
かつ、自分の生き方にウソをつくのが、
嫌いな、真っ直ぐな人なんだと思います。
コロナ禍を経て、
リモート営業や出勤しないスタイルなど、
今までの常識が非常識になり、
非常識が常識になりました。
こんな激動の時代だからこそ、
自分の夢、理想に向かって、
突き進んでいくことが、
大事であり、
一度きりの人生、
自分が亡くなるときに、
「本当にいい人生だった!」と
思えるように、
これからも新しいことにどんどん
チャレンジしようと思いました。
あなたはどう感じましたか?
上手くいってるときも、
ピンチでどうしたらいいんだろうとブルーなときも、
歴史の先輩から学ぶ。
先輩たちの人生を参考にしながら、
明日から、
いやいや今から
自分たちも理想的で素敵な人生を送るために、
自分のペースの明るく・楽しく・元気よく
で、過ごしていきましょう。
次回は、
NHK大河ドラマ「どうする家康」松本潤熱演!徳川家康の生涯と名言
という話を紹介します。