武田信玄ではなく、
もし、
今川義元が山本勘助を雇っていたら、
「桶狭間の戦い」の結果だけでなく、
歴史が大きく変わっていたかもしれません。
今川義元が
山本勘助を雇わなかった2つの理由や
浪人から大活躍し、
守護神のようだとあがめられた、
そんな山本勘助の生涯を紹介します。
目次
今川義元との逸話は?NHK大河ドラマに登場!山本勘助とはどんな人
誕生は、
1493年または1500年の2つの説があり、
生まれも、
三河国(現在の愛知県)
または、駿河国(現在の静岡県)と
2つの説があります。
山本勘助は26歳(または20歳)のときに武者修行の旅に出ます。
その後、
山本勘助は10年間、
中国、四国、九州、関東の諸国をめぐり歩き、
京流(または行流)と呼ばれる
「兵法」を会得するだけでなく、
「築城術」や「陣取りなどの戦法」を
極めたと伝えられています。
1536年、
37歳となった山本勘助は、
駿河国主今川義元に仕えたいと思い、
ツテを頼るも、
結果は不合格となってしまいました・・・
今川義元が山本勘助を雇わなかった2つの理由とは
まずは、
今川義元が山本勘助の容姿を嫌ったことが伝えられています。
山本勘助は色黒で、片目しかなく、
カラダには無数の傷があり、
足が不自由で、
指もそろっていなかったと言われています。
もう一つの理由としては、
実績が乏しかったことが挙げられます。
これまで、
山本勘助は兵法で2、3度手柄を立てたことがあったものの、
城を持ったことも、
また兵を率いたこともなかったため、
山本勘助が兵法を極めたということが
信じられなかったのです。
その後、山本勘助は仕官が叶わず浪人のまま、
なんと、
9年間も駿河国に滞在することとなるのです。
謎の多いミステリアスな人物、山本勘助。
その後、どんな人生を歩んだのかを
解説していきます。
武田信玄との出会い!上杉謙信との対決!軍師!山本勘助の誕生と最期
駿河国に、「兵法家」としてだけでなく、
「築城術」にも通じた浪人がいると、
当時、武田家の重臣であった、板垣信方が聞きつけ、
若き甲斐国国主、武田信玄に山本勘助を推薦します。
山本勘助、
躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)というところで、
武田信玄と初めて対面を果たします。
この時、武田信玄は山本勘助の才能を見抜き、
破格の待遇で、召し抱えることにしました。
同年、武田信玄が信濃国へ侵攻すると、
山本勘助は、なんと9つもの城を落とすという
大きな手柄を立て、その才能を証明します。
その後、1546年、
武田信玄は
信濃国小県郡の村上義清の戸石城を攻めます。
戸石城の守りは固いだけでなく、
敵の援軍が駆けつけ、
激しく攻め立てられ、
武田勢は総崩れとなり撤退するだけでなく、
なんと、
追撃を受けて全軍崩壊の危機に陥ってしまいます。
ここで、
活躍するのが、山本勘助です。
破軍建返し(はぐんたてかえし)誕生秘話
追撃を受けて全軍崩壊の危機を救った山本勘助が取った作戦とは
たった50騎を率いて村上軍に罵声を浴びせ、
挑発する陽動作戦を実行している間に、
武田信玄が体勢を立て直し、
山本勘助の巧みな采配により反撃を開始、
ついに村上軍を打ち破ったと言われています。
こうした敗れそうな軍を立て直すことを、
「破軍建返し(はぐんたてかえし)」と
呼ばれるようになります。
この戦いにおける、
山本勘助の縦横無尽の活躍に、
守護神のようだとあがめられるだけでなく、
足軽大将に昇進。
また、
武田家の家臣の誰もが山本勘助の軍略を認めるようになりました。
そして1561年、
あの
川中島の戦い
が始まります。
上杉謙信軍は、1万3000の兵を率いて、
妻女山(さいじょさん)に陣を構え、
武田信玄の海津城を攻めようとします。
一方、
武田信玄も2万の兵を率いて、
これに対抗します。
両軍は数日に及び対峙します。
ここで、武田信玄、
山本勘助と
70回を越える戦闘で亡くなった「長篠の戦い」まで、
かすり傷一つ負わなかったと言われる、
武田軍最強の猛者、
馬場 信房(ばば のぶふさ)の2人に
上杉謙信を打ち破る作戦を立てるように命じます。
山本勘助と馬場 信房(ばば のぶふさ)は、
軍を二手に分けて、
大規模な別働隊を夜中に、上杉謙信が陣を構える、
妻女山(さいじょさん)へ接近させ、
夜明けと共に一斉に攻撃。
驚いた上杉謙信軍が妻女山(さいじょさん)を
下りたところを
平地に布陣した本隊が挟撃して壊滅させるという
作戦を提案します。
啄木鳥(きつつき)がくちばしで木を叩き、
驚いた虫が飛び出てきたところ喰らうことに
似ていることから後に、
「啄木鳥戦法(きつつきせんぽう)」と
名づけられました。
武田信玄はこの作戦にのります。
ところが、
戦の天才である上杉謙信は、
なんとこの作戦を見抜いていました。
武田軍が妻女山(さいじょさん)を攻めるも、
上杉軍の陣は、すでにもぬけの殻。
出し抜かれた武田軍は、
上杉軍に攻め立てられ、
武将が相次いで討ち死にします。
山本勘助は己の作戦の失敗によって
全軍崩壊の危機にある責任を感じ、
死を決意。
敵中に突入し、13騎を倒しますが、
ついに討ち取られ、
69歳でその生涯を生涯を閉じることとなりました。
現代では、
●テレビ
・2007年、NHK大河ドラマ
原作:井上靖、脚本:大森寿美男、主演:内野聖陽
『風林火山』
●ゲーム
・信長の野望
●アプリ
・戦国炎舞
など、
数々の作品にも取り上げられています。
また、山本勘助をもっと詳しく知りたい方は、
本だけでなく、
「山本勘助ほうとう」と食品もありますので、
ぜひ、ご覧ください。
山本勘助101の謎 その実像から「川中島の戦い」の内幕まで (PHP文庫)
謀将山本勘助(上) (角川文庫)
謀将山本勘助(下) (角川文庫)
山本勘助 武田軍団を支えた名軍師 (PHP文庫)
山本勘助とは何者か 信玄に重用された理由 (祥伝社新書)
山本勘助ほうとう
まとめ
山本勘助の生涯を振り返ってみましょう。
誕生は、
1493年または1500年の2つの説があり、
生まれも、
三河国(現在の愛知県)
または、駿河国(現在の静岡県)と
2つの説がありました。
その後、
山本勘助は、
10年間、中国、四国、九州、関東の諸国をめぐり歩き、
京流(または行流)と呼ばれる「兵法」を
会得するだけでなく、
「築城術」や「陣取りなどの戦法」を
極めたと伝えられていました。
そして、
1536年、37歳となった山本勘助、
駿河国主、今川義元に仕えたいと思い、
ツテを頼るも、
結果は不合格となりました。
不合格になった2つの理由、
覚えてますか?
まずは、今川義元が、
山本勘助が、
色黒で、片目しかなく、カラダには無数の傷があり、
足が不自由で、
指もそろっていなかったと言われ、その容姿を嫌ったこと、
もう一つの理由としては、
これまで、
山本勘助は兵法で2、3度手柄を立てたことがあったものの、
城を持ったことも、また兵を率いたこともなかったため、
実績が乏しく信用されなかったことでした。
もし、
今川義元が山本勘助を雇っていたら、
「桶狭間の戦い」はどうなっていたんでしょうか?
歴史が変わっていたかもしれません。
話を元に戻しますね。
その後、
武田信玄は山本勘助の才能を見抜き、
破格の待遇で、召し抱えることにしました。
同年、武田信玄が信濃国へ侵攻すると、
山本勘助は、
なんと9つもの城を落とすという大きな手柄を立て、
その才能を証明しました。
その後、1546年、
武田信玄は信濃国小県郡の村上義清の戸石城を攻め立てた際、
当初、武田勢は総崩れとなり撤退するだけでなく、
なんと、追撃を受けて全軍崩壊の危機に陥ってしまいますが、
山本勘助が
たった50騎を率いて村上軍に罵声を浴びせ挑発する、
陽動作戦を実行している間に、
武田信玄が体勢を立て直し、
山本勘助の巧みな采配により反撃を開始、
ついに村上軍を打ち破ったと
言われていました。
この戦いにおける、
山本勘助の縦横無尽の活躍に、
守護神のようだとあがめられるだけでなく、
足軽大将に昇進し、
武田家の家臣の誰もが
山本勘助の軍略を認めるようなりました。
そして、1561年、
あの「川中島の戦い」が始まりました。
上杉謙信軍は、1万3000の兵を率いて、
妻女山(さいじょさん)に陣を構え、
武田信玄の海津城を攻めようとします。
一方、武田信玄も2万の兵を率いて、
これに対抗します。
ここで、武田信玄の作戦立案の命を受け、
山本勘助と
馬場 信房(ばば のぶふさ)は、
軍を二手に分けて、大規模な別働隊を夜中に、
上杉謙信が陣を構える、
妻女山(さいじょさん)へ接近させ、
夜明けと共に一斉に攻撃。
驚いた上杉謙信軍が妻女山(さいじょさん)を
下りたところを、
平地に布陣した本隊が挟撃して
壊滅させる作戦を提案します。
覚えていますか?
「啄木鳥戦法(きつつきせんぽう)」
武田信玄はこの作戦にのります。
ところが、
戦の天才である上杉謙信は、
なんとこの作戦を見抜いていました。
出し抜かれた武田軍は、
上杉軍に攻め立てられ、
武将が相次いで討ち死にし、
山本勘助は
己の作戦の失敗によって
全軍崩壊の危機にある責任を感じ、
死を決意。
敵中に突入し、13騎を倒しますが、
ついに討ち取られ、
69歳でその生涯を生涯を閉じることとなりました。
浪人から大活躍した、
そんな山本勘助本人の名言はありませんでしたが、
自分が考えた作戦の失敗を、
自分の身をもって責任を取るという生き方は、
潔く、男らしく、言葉以上のパワーを感じました。
また、
10年間、中国、四国、九州、関東の諸国をめぐり歩き、
学び、努力したことにより、
京流(または行流)と呼ばれる「兵法」を会得するだけでなく、
「築城術」や「陣取りなどの戦法」を極め、
今川義元に仕えたいと思い、ツテを頼るも、
結果は不採用となり浪人生活を送るも、
武田信玄により採用されたことは、
やはりタイミングは重要であり、
例え今は、自分のイメージ通りでなく、
物事が上手くいってなかったとしても、
一喜一憂せず、1日1日を大切に生きていれば、
必ず必要とされるタイミングが来るよ!と
教えてくれるような生き方だったと思います。
皆さんはどう感じましたか?
上手くいってるときも、
ピンチでどうしたらいいんだろうとブルーなときも、
歴史の先輩から学ぶ。
先輩たちの人生を参考にしながら、
明日から、
いやいや今から
自分たちも理想的で素敵な人生を送るために、
自分のペースの明るく・楽しく・元気よく
で、過ごしていきましょう。
次回は、
豊臣秀吉!黒田官兵衛との逸話と家紋の由来!竹中半兵衛の生涯と名言
という話を紹介します。