豊臣秀吉!黒田官兵衛との逸話と家紋の由来!竹中半兵衛の生涯と名言

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竹中半兵衛をイメージしたイラスト



豊臣秀吉から三顧の礼で迎えられ、

黒田官兵衛の子、

黒田長政を一計を案じ救った、

天才調略士、

竹中半兵衛の生涯と名言を紹介します。





 

織田信長!斎藤龍興!浅井長政!との関係!竹中半兵衛とはどんな人物

岐阜県岐阜市にある岐阜城の写真



1544年、

美濃斎藤氏の家臣で、

美濃国大野郡大御堂城(現在の岐阜県揖斐郡大野町)

城主・竹中重元の子として生まれます。




1556年、

国を譲り隠居した斎藤道三と、

斎藤道三の息子、

斎藤 義龍(さいとう よしたつ)との戦いである、

「長良川の戦い」が初陣となります。




ちなみに結果は、

息子の斎藤 義龍(さいとう よしたつ)が

勝利します。




1559年、

父親が菩提山城を築いて、

この城に引っ越したため、

竹中半兵衛もそれにお伴します。




1560年、

家督を相続し、菩提山城主となります。




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その後、

美濃国の国主・斎藤 義龍(さいとう よしたつ)に仕え、




1561年、

斎藤 義龍(さいとう よしたつ)が死去すると、

その後を継いだ

斎藤 龍興(さいとう たつおき)に仕えます。




この頃から、

尾張国の織田信長による美濃への侵攻が、

激しくなります。




その理由としては、

斎藤 義龍(さいとう よしたつ)が死去し、

その後を継いだ

斎藤 龍興(さいとう たつおき)が

まだ若く、組織も盤石でなかったため、

攻めるならこのタイミングであると、

狙っていたと思われます。




織田信長の思惑通り、

後を継いだ斎藤 龍興(さいとう たつおき)は、

若年だったために家臣たちに動揺が走り、

だんだんと織田軍の侵攻を

防ぐことが困難な状況となりますが、

竹中半兵衛の戦術で、

斎藤軍はなんとか勝利し、

領土を守ります。




こんな国が侵略されそうな状況の中、

当の斎藤家、

主君の斎藤 龍興(さいとう たつおき)は、

酒と女性遊びに溺れて、

まったく政務活動をしないだけでなく、

一部の側近だけを大事にして、




竹中半兵衛だけでなく、

美濃三人衆

(稲葉良通、安藤守就、氏家直元を指した総称)と

言われた人物達を遠ざけるようになります。












1564年、

美濃三人衆の1人、安藤守就の軍勢が、

斎藤 龍興(さいとう たつおき)が

住んでいた稲葉山城を襲い、

斎藤 龍興(さいとう たつおき)が

逃亡します。




その後、

斎藤 龍興(さいとう たつおき)により、

稲葉山城を奪還されるも、




1567年、

織田信長の侵攻により、

斎藤 龍興(さいとう たつおき)が

稲葉山城を追われ、

斎藤家が没落します。




竹中半兵衛は、

当時23歳。




斎藤家を去り、

浅井長政の客分として、

一時お世話になるも、

約1年で客分を辞退し、

なんと、隠居生活をスタートします。




隠居生活をスタートした竹中半兵衛、

その後、

どんな人生を歩んだのかを解説していきます。


 







竹中半兵衛!黒田官兵衛との驚きのエピソードと家紋の由来!死因は?

豊臣秀吉をイメージしたイラスト



隠居生活をスタートした、

竹中半兵衛。




織田信長は、

浪人となった竹中半兵衛を自分の家臣として

登用したいと考えていました。




織田信長が

竹中半兵衛のスカウトに抜擢したのは


美濃攻めで頭角を徐々に現していた

木下秀吉(後の豊臣秀吉)。




木下秀吉(後の豊臣秀吉)は、

蜂須賀正勝・前野長康を伴い、

「三顧の礼」で

竹中半兵衛を誘ったとされています。












竹中半兵衛はこの時に、

木下秀吉(後の豊臣秀吉)の

類い稀ない(たぐいまれない)才能を見抜き、




織田信長に直接仕えることは拒否しましたが、

木下秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣となることには、

了承したとされています。




その後、

織田信長包囲網が敷かれ、

織田信長と浅井長政が敵対関係になると、




竹中半兵衛は以前、

客人としていお世話になった

浅井家家臣たちとの人脈を活用して、

主に調略活動で活躍します。




1570年、

浅井方の長亭軒城や長比城を調略によって

織田方に寝返らせています。












その後、

木下秀吉(後の豊臣秀吉)が

「中国攻め」の総大将に任命されると、

竹中半兵衛は中国遠征に同行します。




1578年、

宇喜多氏の備前八幡山城の城主を

調略成功によって

落城させます。




同年、

織田信長に謀反を起こした、

「有岡城の戦い」の首謀者である

荒木 村重(あらき むらしげ)に対して、




木下秀吉(後の豊臣秀吉)の幕僚、

黒田官兵衛が有岡城へ赴き、

降伏を呼びかけますが、

城内で監禁されてしまい、

外部との連絡を断たれてしまいます。




そんな事情を知らない織田信長は、

黒田官兵衛が

荒木 村重(あらき むらしげ)の味方になったと思い込み、

黒田官兵衛の子ども、

黒田長政の殺害を

木下秀吉(後の豊臣秀吉)に命じます。






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ここで

竹中半兵衛は一計を案じた方法とは


なんと、

木下秀吉(後の豊臣秀吉)に

ニセモノの首を提出させ、

黒田長政の命を助けます。




このことを非常に感謝した、

黒田官兵衛は、

その後、

竹中家の家紋を貰い受けています。




1579年、

織田氏と別所氏の合戦、

「三木合戦」中に病に倒れ、

陣中にて、

36歳という若さでその生涯を生涯を

閉じることとなりました。










現代では、

●テレビ

・2011年、山本耕史出演、

 テレビ東京新春ワイド時代劇

 『戦国疾風伝 二人の軍師 秀吉に天下を獲らせた男たち』 



●ゲーム

 ・信長の野望

 ・戦国無双

 ・戦国basara

 ・モンスト

 ・戦国ixa


●マンガでは、

 転生無双、



など、

数々の作品にも取り上げられています。










また、竹中半兵衛をもっと詳しく知りたい方は、

本だけでなく、ゲームもありますので、

ぜひ、ご覧ください。




竹中半兵衛 戦国人物伝 (コミック版日本の歴史)



竹中半兵衛 (人物文庫)



戦国の軍師(竹中半兵衛篇) (歴史群像新書)



歴史REAL戦国最強の軍師黒田官兵衛と竹中半兵衛
秀吉を天下人にした「二兵衛」の生涯を追う! (洋泉社mook)



竹中半兵衛と黒田官兵衛 秀吉に天下を取らせた二人の軍師 (PHP文庫)






そんな彼の名言とは?

ピックアップしてみました。

ぜひ、元気をいっぱいもらってください。









 

黒田官兵衛との逸話と家紋の秘話に驚き!軍師!竹中半兵衛の名言とは

竹中半兵衛の嫡男、竹中重門が築いた城「竹中陣屋」を散策しながら、竹中半兵衛の名言を回想しているイメージ写真



・どんな良い話も、無駄な質問と回答をしては台無しだ。



・常に油断をするな。



・自分の身の丈以上の、高値の馬を買うべきではない。



・どんな立派な城より、人心を一つにする方が強い。



・大事な話は何もかも気にせず集中して聞くべきだ。



・他人の実績で自分に箔をつけようとしてはならない。

 








まとめ

竹中半兵衛の生涯と名言を知って、心が晴れ晴れとしたイメージ写真



竹中半兵衛の生涯を振り返ってみましょう。




1544年、

美濃斎藤氏の家臣で、

美濃国大野郡大御堂城(現在の岐阜県揖斐郡大野町)

城主・竹中重元の子として生まれ、




1556年、

国を譲り隠居した斎藤道三と、

斎藤道三の息子、

斎藤 義龍(さいとう よしたつ)との戦いである、

「長良川の戦い」が初陣となりました。




ちなみに結果は、

息子の斎藤 義龍(さいとう よしたつ)が

勝利しました。












1559年、

父親が菩提山城を築いて、

この城に引っ越したため、

竹中半兵衛もそれにお伴し、




1560年、

家督を相続し、

菩提山城主となりました。




その後、

美濃国の国主・斎藤 義龍(さいとう よしたつ)に

仕え、




1561年、

斎藤 義龍(さいとう よしたつ)が

死去すると、

その後を継いだ

斎藤 龍興(さいとう たつおき)に仕えます。




この頃から、

尾張国の織田信長による美濃への侵攻が、

激しくなりました。




その理由としては、

斎藤 義龍(さいとう よしたつ)が死去し、

その後を継いだ

斎藤 龍興(さいとう たつおき)が

まだ若く、組織も盤石でなかったため、

攻めるならこのタイミングであると、

狙っていたと思われました。




織田信長の思惑通り、

後を継いだ斎藤 龍興(さいとう たつおき)は、

若年だったために家臣達に動揺が走り、

だんだんと織田軍の侵攻を防ぐことが

困難な状況となりましたが、

竹中半兵衛の戦術で、

斎藤軍はなんとか勝利し、領土を守りました。










こんな国が侵略されそうな状況の中、

当の斎藤家、

主君の斎藤 龍興(さいとう たつおき)は、

酒と女性遊びに溺れて、

まったく政務活動をしないだけでなく、

一部の側近だけを大事にして、




竹中半兵衛だけでなく、

美濃三人衆

(稲葉良通、安藤守就、氏家直元を指した総称)と

言われた人物達を遠ざけるようになり、




1564年、

美濃三人衆の1人、

安藤守就の軍勢が、

斎藤 龍興(さいとう たつおき)が

住んでいた稲葉山城を襲い、

斎藤 龍興(さいとう たつおき)が

逃亡しました。




その後、

斎藤 龍興(さいとう たつおき)により、

稲葉山城を奪還されるも、




1567年、

織田信長の侵攻により、

斎藤 龍興(さいとう たつおき)が

稲葉山城を追われ、

斎藤家が没落してしまいました。









その後の当時23歳の

竹中半兵衛がとった行動、

覚えてますか?




斎藤家を去り、

浅井長政の客分として、

一時お世話になるも、

約1年で客分を辞退し、

隠居生活をスタートしました。




浪人となった竹中半兵衛を自分の家臣として

登用したいと考えていて人物がいました、

そうです、織田信長です。




織田信長が竹中半兵衛のスカウトに

抜擢したのは、

美濃攻めで頭角を徐々に現していた

木下秀吉(後の豊臣秀吉)。




木下秀吉(後の豊臣秀吉)は、

蜂須賀正勝・前野長康を伴い、

「三顧の礼」で

竹中半兵衛を誘ったとされていました。




竹中半兵衛はこの時に、

木下秀吉(後の豊臣秀吉)の

類い稀ない(たぐいまれない)才能を見抜き、




織田信長に直接仕えることは拒否しましたが、

木下秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣となることには、

了承したとされていました。












その後、

織田信長包囲網が敷かれ、

織田信長と浅井長政が敵対関係になると、




竹中半兵衛は以前、

客人としてお世話になった

浅井家家臣たちとの人脈を活用して、

主に調略活動で活躍、




1570年、

浅井方の長亭軒城や長比城を

調略によって

織田方に寝返らせました。




その後、

木下秀吉(後の豊臣秀吉)が

「中国攻め」の総大将に任命されると、

竹中半兵衛は中国遠征に同行、




1578年、

宇喜多氏の備前八幡山城の城主を

調略成功によって落城させました。






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同年、

織田信長に謀反を起こした、

有岡城の戦いの首謀者である

荒木 村重(あらき むらしげ)に対して、

木下秀吉(後の豊臣秀吉)の幕僚、

黒田官兵衛が有岡城へ赴き、

降伏を呼びかけますが、

城内で監禁されてしまい、

外部との連絡を断たれてしまいました。




そんな事情を知らない織田信長は、

黒田官兵衛が

荒木 村重(あらき むらしげ)の味方になったと思い込み、

黒田官兵衛の子ども、

黒田長政の殺害を木下秀吉(後の豊臣秀吉)に

命じました。




ここで竹中半兵衛が一計を案じました、

覚えてますか?












木下秀吉(後の豊臣秀吉)に

ニセモノの首を提出させ、

黒田官兵衛の子ども、

黒田長政の命を助けましたね。




このことを非常に感謝した、

黒田官兵衛は、

その後、

竹中家の家紋を貰い受けています。




もしここで、

黒田長政が亡くなっていたら、

歴史が変わったかもしれません。




1579年、

織田氏と別所氏の合戦、

「三木合戦」中に病に倒れ、

陣中にて、

36歳という若さでその生涯を生涯を

閉じることとなりました。










竹中半兵衛が

残してくれた言葉で、

私が好きなのは、




・どんな立派な城より、人心を一つにする方が強い。




天才調略士として、

直接戦うという形ではなく、

人の心を動かし

勝利に導くやり方を得意とした、

竹中半兵衛らしい言葉であると思います。




やはり、どんな立派な城であっても、

そこにいる人の結束力が弱ければ、

いつかは内部から崩壊していく、

そのことを分かりやすく表現してくれている

味わい深い言葉だと思いました。




あなたはどう感じましたか?











上手くいってるときも、

ピンチでどうしたらいいんだろうとブルーなときも、

歴史の先輩から学ぶ。

先輩たちの人生を参考にしながら、

明日から、

いやいや今から

自分たちも理想的で素敵な人生を送るために、

自分のペースの明るく・楽しく・元気よく

で、過ごしていきましょう。










次回は、


関ヶ原の戦い後も生存?石田三成との関係?最強!島左近の生涯と名言


という話を紹介します。

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